深川夏眠の備忘録

自称アマチュア小説家の雑記。

ブックレビュー『奇想版 精神医学事典』

春日武彦先生の最新刊『恐怖の正体――トラウマ・恐怖症からホラーまで』

読了後、既刊『奇想版 精神医学事典』というとびきり面白そうな本に飛びついた。

 

fukagawa-natsumi.hatenablog.com

 

クセのある精神科医(失礼!)による、

五十音順でもアルファベット順でもなく、

心の赴くまま連想に連想を重ねて綴られた事典形式のエッセイ集。

先生の趣味・嗜好がモロ出し(笑)で、

しかも一読者である私の好みにマッチする話題が多くて楽しかった。

 

例えば――

 

[神]p.7~8

 神は思いがけないところへ、不意に姿を現す。

 タイヤの表面に刻まれた溝がアラビア文字による「アラー」に酷似していた、

 あるいはバスケットシューズのデザインプリントがまたしても(略)といった

 メーカーの受難。

 不謹慎なようだが、どことなくボルヘスの作品世界を思わせるエピソード。

 

第一次世界大戦p.41~42

 美容整形が大きく発展を遂げた背景には、第一次世界大戦の勃発があったという。〔略〕
 第一次世界大戦はまた、本格推理小説の発展にも大きく寄与したという説がある。この戦争がもたらしたものとは、未曽有の大量殺人といった異常事態であり、この事実こそが人々の精神を変容させた。大量殺人や連続殺人、無意味な殺人や興味本位の殺人といったものの非日常性が薄まり〔略〕ヒトはいくらでも冷酷に殺人を犯せることが証明されてしまったのである。そのような心の闇の自覚と連動して、推理小説の黄金時代が訪れることになったのであった。
 美容整形と推理小説、どちらも他人を欺くといったベクトルを備えたジャンルが第一次世界大戦を契機に飛躍的な進歩を遂げたというのは興味深い。〔後略〕

 

三島由紀夫p.64~65

 三島由紀夫は運動神経が鈍かった。それはある種の不器用さとか身体感覚の欠落をも含む鈍さであった。〔略〕
 ボディビルで肉体を作り替えても、運動神経の鈍さは克服出来ない。〔略〕にもかかわらず三島はそんな自分を認めようとせず、マッチョな美学へとのめり込んで滅びていった。
 異論を申せば、彼は美食へと走ればよかったのである。ひたすら美味いもの、珍奇なものを食べ漁り、ぶくぶくと肥満していけばよかったのである。化け物のように肥ってしまえば、もはや運動神経の有無など意味を持たない人生を送ることになるだろう。劣等感を葬り去れるのだ。三島は鍛え上げた筋肉などではなく、美食でもたらされた脂肪を身に纏うべきだったのである。〔後略〕

 

[記憶] p.204

〔前略〕 激しい苦痛を感じたとしても、それが記憶に残らないとしたら、果たしてそれは苦痛として成立し得るものなのだろうか。忌まわしい思い出、辛く不快な体験として個人の記憶に棲みつかなければ、苦痛というものは存在しないのではないか。
 言い換えれば、人間は記憶によって延々と苦しみを背負い込む。記憶こそが人間の苦しみを司っていると考えるのは間違っているだろうか。

 

[アンダソン神話] p.281~283

〔前略〕 アンダソンの作品でもっとも有名なのは、「グロテスクなものについての書」という前書きを付された連作短編集『ワインズバーグ、オハイオ』(1919)であろう。〔略〕いわゆる南部ゴシックの源流に位置している。
 アンダソン神話と呼ばれるものがあり、高田賢一・森岡裕一編著による研究書『シャーウッド・アンダソンの文学』(ミネルヴァ書房、1999)所収の高田賢一「序にかえて――シャーウッド・アンダソンの人生」から引用してみる。

 

 1912年の11月末のある日、「長い間、川の中を歩いていたので、足が濡れて冷たくなり、重くなってしまった。これからは、陸地を歩いていこうと思う」と、謎めいた言葉を残してアンダソンは失踪する。小規模とはいえ塗料販売会社社長の地位を投げ捨てたばかりか、妻と三人の子どもたちのいる家庭も捨て、これからの貴重な人生を文学に捧げるべく、成功追求の世界に別れを告げたのである。この時、彼はすでに36歳になっており、ポケットにはわずか五、六ドルの金しか入っていなかったという。
 これが世に名高いアンダソン神話である。真相は会社の経営不振からくる心労のため、神経衰弱となっての発作的な行動だった。行方不明の四日後の12月1日、朦朧状態でクリーヴランド市内で発見され病院に収容される。後年、アンダソンはこの体験について、虚偽の生活を捨て、真実を追求するための脱出だったと好んで語ったため、「芸術という宗教」を奉じる1920年代、30年代の若き作家たちに多大の感銘を与えた。この多分に自己劇化された行動は、アンダソンの作品の主人公たちが繰り返す行為となる。

 

 おそらく彼は解離症状を呈したのだろう。〔略〕さもなければ解離性遁走(フーグとも言う)や解離性朦朧状態。いずれも、「わたしは誰? ここはどこ?」といった状態になってしまうので、責任もノルマも道徳もすべて自己破産状態となり、誰も追及するわけにはいかなくなってしまう。究極の居直りであり、〔略〕結果としてアピールしただけの甲斐はあったという結末を迎えることになる。
 実生活と文学との狭間で苦吟し、また36歳でまだ芽が出ないという焦りが解離症状へと結実したのだろう。この体験をむしろ自慢として語る態度に、アンダソンのグロテスクな自己愛を見ても良いのかもしれない。

 

fukagawa-natsumi.hatenablog.com

ja.wikipedia.org

 

[ポルノグラフィー]p.343

 ポルノグラフィー(猥褻な興奮を引き起こすことのみを目的とした映像や文章。ポルノ)を見る(読む)者は、そこに表現された個別性ではなくパターンに反応する。自分がお気に入りの「卑猥なパターン」がしっかりと現出しているか否かだけが、価値を決めるポイントとなる。言い換えるならば、そのパターンは既にわたしたちの頭にインプットされているのである。たまには「そんなポーズもあったのか!」といった調子で目新しく感じることもあろうが、実は薄々そのようなものをも予感し期待していた筈である。そう、頭に棲み着いていた猥褻なイメージを、他人を介してあらためて「なぞり」、確認することで我々には強烈な満足感が生じる。
 本来、ポルノを楽しむのはきわめて孤独な営みである。秘密厳守が前提である。にもかかわらず、脳内のイメージをわざわざ他人が再現してくれることで興奮するのである。いやはや人間は面倒な生き物だと思わずにはいられない。誰もが、自分の頭の中にポルノグラフィーを寂しく携えて日々を送っているのだ。

 

フェティシズムp.536~538

 拝物愛、物件恋愛、淫物症、節片淫乱症などと呼ばれたこともある。物神(魔術的な力を備え、非合理的崇拝の対象たる呪物)fetischという言葉からの派生語である。
 フェティシズムはほぼ男性に限定され、女性が身に着ける下着、ストッキング、靴、帽子、衣服などに激しい性的刺激を覚えオーガズムを感じる状態を指す。そしてしばしばそれら対象物はコレクションされる(ときには下着泥棒などの形で)。蒐集行為そのものが支配欲の充足や性的興奮につながるのであろう。
 性的倒錯の一種とされ、しかし正常な性行為においてもフェティシズム的な嗜好は少なからず見出される。つまりフェティシズムにおいて正常と異常の境目ははっきりしない。おそらく「生身の」女性と向き合うよりもモノだけのほうが快楽を得やすくなった段階で異常とされるのだろう。〔後略〕

 

[健脳丸]p.542~543

 明治29年、丹平製薬によって発売された売薬。効能は「脳充血、逆上、神経痛、眩暈、脳膜炎、頭痛、顔面神経痛、ヒステリー、耳鳴り、癲癇、不眠、中風卒中、ひきつけ、便秘、健忘、その他脳神経病一切」となっており、脳・精神・神経関連の症状が羅列されているが、唯一「便秘」という頭とは無関係な症状が含まれているのに注意されたい。健脳丸の成分は臭化カリウム、ゲンチアナ、大黄、アロエであり、それらの中で臭化カリウムのみが向精神作用を示し(抗不安作用、抗痙攣作用)、他は便秘や健胃薬として用いられるものである。〔略〕
 なお健脳丸に似た売薬としては快脳丸が有名で、それは広告に「頭脳の不完全なる者は馬鹿であります」という有名な鬼畜コピーがあるからに他ならない。

 

式場隆三郎p.567~569

〔前略〕 1898年(明治31年。画家のルネ・マグリットや作家の井伏鱒二が同年生まれ)・新潟県出身、新潟医専卒。〔略〕38歳で千葉県市川市国府台に国府台病院(現・式場病院)を建てて院長となった。同時に建設された自宅には、柳宗悦濱田庄司河井寛次郎会津八一などが関わっている。同病院には広大な薔薇園があり、精神科病院と薔薇園の対比に感銘した中井英夫はそれをモデルに小説『とらんぷ譚』で流薔園なる精神科病院を登場させた。〔後略〕

 

 これは知らなかった……いや、どこかで読んだことがあったかもしれないが、

 失念していたのだろう。

 

 

 そして、式場隆三郎と言えば二笑亭(p.569~570に項目あり)。

 

booklog.jp

ja.wikipedia.org

 

といった具合に、遊園地の鏡の迷路を、おっかなびっくり

ドキドキワクワクしながら手探りで進む感覚を味わったのだった。

 

ja.wikipedia.org

 

 

映画鑑賞記『回路』

今年、俄然お世話になり始めたBS松竹東急さん、

ありがとう黒沢清監督の『CURE』を観させてくれて、

ついでにもう一声『回路』もお願いできませんかね……と

心の中で呟いていたら叶いました、ハハハ。

 

fukagawa-natsumi.hatenablog.com

fukagawa-natsumi.hatenablog.com

 

 

やってくれたので、鑑賞しました『回路』(2001年)。

専門家ではない多くの人が気軽にパソコンに触れ、

インターネットの利用を試み始めたブロードバンド初期が舞台の不気味な物語。

とは言っても、私には全然怖くなかった。

頭のおかしい殺人鬼やモンスターが襲いかかってくる系のホラーよりは

ずっと心地いい気持ち悪さでしたけど(笑)。

ネット接続を介して、

この世とあの世――というより、まだ三途の川を渡り切っていない辺り――が

繋がってしまうといった雰囲気。

現世に愛想を尽かして死を選んだ人たちが、

死後の永遠の長さに戦慄して、戻れるものなら戻りたい……と思い始めた、

かのような。

現在は片手に収まるスマホ一つで何でもこなせる時代なので、

デジタルネイティヴの若人にはピンと来ないかもしれないけれど、

二十数年前、初めてネットワーク接続を開始した一般人は当時、

あれこれ手探りで試行錯誤したり、また、

途中で一つミスを犯すと、取り返しのつかない大きな過ちに繋がるのでは……なんて

危惧を覚えたりしたものだったんですよ。

なので、そのうっすらした怖さを体感していた公開当時、

リアルタイムで鑑賞していたら結構ブルッたかもしれない、気はしますね。

 

うろ覚えですが、初期の『新耳袋』に(パソコンではなく)ワープロ

小説か何かの原稿を作成していた人が、深夜、それが勝手に動いて

印字された紙を吐き出す様を目撃して震え上がった……みたいなエピソードが

あったかと思います。

私は映画『回路』に同様の手触りを感じたのでした。

 

ja.wikipedia.org

 

youtu.be

 

 ↓ ザックリしたあらすじを経て結末に触れています@Wikipedia

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

 

ところで、Raodstead というプラットホームで黒沢清監督の最新作が

2024年に公開されるそうで、キーヴィジュアルを見たらもう、

堪らなく鑑賞したくなってしまったので、ユーザー登録しました。

あ、出品しない購入者として、です。

とは言ったものの、このサイト、現状、非常に使い勝手が悪い。

パッと目につくところに新着コンテンツ一覧でも用意してくれたらいいのに。

このわかりにくさは 403adamski 同様だゼ……と思ったわ。

 

403adamski.jp

403adamski.jp

 

既に販売開始されているクリエイターさんのコンテンツを探すのに一苦労。

現状、各出品者さんごとに

公式サイト・SNS等から商品一覧ページを探し当てねばならないようで……。

 

まあ、時期が来たらどこかで話題になるでしょうから、

そうしたら映画『Chime』を購入・観賞しようと思います。

 

eiga.com

roadstead.io

 

映画鑑賞記『市子』

12/7(木)夜、夫が「ラジオ番組で杉咲花主演映画の話題が……」と切り出した。

が、パーソナリティがネタバレを避けるため非ッ常~に遠回しな説明に終始し、

要領を得ないので却って気になる、と(笑)。

それなら見てみようやないかい、とて即・座席予約。

12/9(土)鑑賞してまいりました、戸田彬弘監督の映画『市子』。

 

happinet-phantom.com

 

同棲相手の義則にプロポーズされ、

涙を零して嬉しいと喜んだ市子(いちこ)は何故かその翌日、彼の前から姿を消した。

義則は彼女を探す過程で、

三年も一緒に暮らしながら彼女について何一つ知らなかったことに愕然とする……。

 

何ともヘヴィな二時間でした。

 

市子の小学校の同級生や高校時代の交際相手などから

彼女がどんな人物なのかを聞き出して情報を並べていくという形式なので、

岡崎京子「チワワちゃん」を思い浮かべた。

 

 

しかし、市子の場合、義則にとって、そして、観客にとっては謎が深まる一方で……。

 

指輪より先に取りあえず市子が欲しがっていた浴衣を買ってきて婚姻届を差し出し

プロポーズする義則(演=若葉竜也さん)めちゃ優しくてイイやつで、

事実を突きつけられて疲弊していく様が痛々しいのだ。

 

【余談】

 若葉さんって『シリーズ・江戸川乱歩短編集』の「何者」で結城弘一を

 演じてらした方ですわね💕

 

www.nhk.or.jp

 

 

途中ふと、市子はもしかすると誰かと親密さを増していくと、それに倦んで、

鬱陶しく感じるようになってリセットすることを繰り返すタイプの人なのか、

とも思ったのですがね……そんな生易しい話ではなかった。

 

花ちゃんの大阪弁めっちゃカワイイんだけど。

 

何というか、積み重なった悲しい夏の思い出いろいろ、ですわね。

で、ツクツクボウシが鳴いているから夏の終わりだと察することが出来て、

あ、日本人でよかった、とか思ってしまうという。

 

温かく優しい手触りの映画は季節が春か秋で、残酷な話は夏と冬じゃね?

てなことも考えました、ハイ。

 

ちなみに、元になった演劇版『川辺市子のために』未鑑賞で、

これから映画を観る人はパンフレットを買っても先に読まない方がいいです。

ガッツリ核心に触れているので💧

私は新鮮な驚きを得られてラッキーだったと思いました。

 

epad.terrada.co.jp

 

市子と義則の出会いのエピソードが映画終盤で描写されるのですが、

もしかしたら、二人はまたどこかの夏祭りで屋台の焼きそばを買おうとして

再会するのじゃなかろうか……などと妄想してみた。

但し、決してそのまま幸福な同居生活に戻ることは叶わないのだけれど。

 

ただ、普通に、静かに慎ましく生きることの何という難しさ。

 

ja.wikipedia.org

 

ブックレビュー『恐怖の正体――トラウマ・恐怖症からホラーまで』

昔は春日ファンを自称していたのですが、めっきりご無沙汰で。

『しつこさの精神病理』(2010年)辺りから、ちょっと説教臭くなってきたぞ

……と思うようになったせいか。

 

 

かなり長い間、手を出していなかったのですが、

先日、最新刊の紹介を某所で目にして「また読んでみるか」と思いまして。

 

 

『恐怖の正体――トラウマ・恐怖症からホラーまで』を購入、読了。

精神科医による〈恐怖〉を巡る考察。

 

 

第一章:恐怖の生々しさと定義について

恐怖の定義;①危機感,②不条理感,③精神的視野狭窄

この三つが組み合わされることによって生じる感情が恐怖という体験を形作る。

 

第二章:恐怖症の人たち

様々な恐怖症について。

対象となるのは本来危険ではないものなのだが、それを危険と認識し、

過剰反応する人たちがいる。

恐怖症とは、そもそも神経症の一種で、

当事者たちは普段から心の中に漠然とした不安や鬱屈を抱え込んでいると言える。

一般に、人間はそうした掴みどころのない曖昧な感じが苦手だからだ。

そこで、取り留めのない状況に苦しむよりは何か具体的な事象に苛まれる方が

気分が楽になる――こうしたプログラムの発動によって、

不快な体験の記憶や変形した忌避的感情などが現出すると考えられる。

 

第三章:恐怖の真っ最中

恐怖に際して、アドレナリンによる過覚醒が時間の減速をもたらし、

また、ストレスや痛みから〈死の危険〉が生じると、

エンドルフィンの分泌が心を鎮め、感覚を麻痺させる。

同時に脳内の連携システムにブレーキが掛かり、すると、

脳の各所が勝手に作動して様々な映像が脈絡なく脳裏に描き出されるらしい。

エンドルフィンはモルヒネの一種で、

絶体絶命状態におけるヒトの脳が絞り出す偽りの救いと言える。

精神分析家マイクル・バリントは著作『スリルと退行』で、

スリルを好む人たちをフィロバット(philobat)という造語で呼び、

反対に安全や安定にこだわる人たちをオクノフィル(ocnophil)と名づけ、

人間はいずれかの二種類に分かれるという説を唱えた。

 

 おそらくフィロバットたちはアドレナリンによる過覚醒に淫しているのだろう。スリルを愛し、危険とダンスを踊り、恐怖を手なずけることで全能感を味わいたいのであろう。そして臆病で地道なオクノフィルたちを蔑みたいのだろう。
 恐怖は人を圧倒することが多い。そうなると、だからこそ恐怖を軽くあしらってみたいと思う人間が出現するのは当然だろう。もっとも、その代償として命を失ったりするケースも出てくるわけだが、心配には及ぶまい。エンドルフィンが優しく当人を天国へ導いてくれるに違いないから。[p.87-88]

 

 

第四章:娯楽としての恐怖

ホラー小説・映画など、〈恐怖〉が娯楽になり得るのは何故か。

それは、娯楽として提供される〈恐怖〉は〈恐怖〉そのものではなく紛い物、

言うなれば〈恐怖〉における蟹ならぬカニカマだから。

しかし、我々に、極限を超えた事象がもたらす感覚、

あるいは臨界・究極といった概念に酩酊感を覚えることを求める傾向があるためでは

なかろうか。

 

第五章:グロテスクの宴

恐怖に近接するイメージ=グロテスクについて、映画や文学を引き合いに。

■グロテスクと認定されるべき事象三選;

 ①目を背けたくなる(しかし、しばしば目が釘付けになる)。

 ②そのようなものと一緒に自分はこの世界を生きていかねばならないのかと

  慨嘆したくなったり、震撼させられたりする。

 ③その異質さは、ときに滑稽さという文脈でしか受け入れられない。

とはいえ、著者はそうした物語が日常に紛れ込み、

退屈な毎日がささやかな恐怖で脅かされたり変質したりすることによって、

人が生きる意味を問い直せるのは好ましいと考えている模様。

 

第六章:死と恐怖

死者(遺体)には威圧感やグロテスクさがある一方、

死という事象には聖性あるいは超越性といった抽象的な要素、

もしくは下世話さと宗教性が縒り合わさった独特の雰囲気があること。

何故、死が恐ろしいのかというと、死には三つの要素が備わっていて、

それらが人を脅かすと考えられる(①永遠,②未知,③不可逆)。

死は恐怖の中でも別格だが、日常の中の些細な出来事によって

それがいつの間にかどうでもよくなってしまうことがあり、

そこに人間の面白さ・したたかさがあると言える。

 

 *

 

医師として生き死にの現場に立ち会ったり、

死にたい/死にたくないと訴える人の話を聞いたり、

あるいは趣味で様々な本を読んだり映画を観たりしている著者が綴った、

恐怖とは何かを巡るエッセイ――だったわけですが、

「逃れようのないというものが怖くて堪らない」

と頭を抱える人へのアドバイス記事を読んだ春日先生が、

辛いなら病院へ行って潔癖症ないし強迫性障害の治療を受ける=

適切な投薬を受ける方がずっと有効ですぞとおっしゃったところで

大いに頷きつつ笑ってしまった。

散文的な悩みも実は身も蓋もない診断名に収斂することが多いですからね。

薬を呑んで睡眠を取って食事して、仕事するなり家事に勤しむなり、

その上、趣味があるなら尚更結構、といった次第で。

恐怖を娯楽として消費できるのは当人の精神状態が安定している証拠だな、と

改めて思ったのでした。

 

book.asahi.com

ja.wikipedia.org

 

ブックレビュー『殺人者たちの「罪」と「罰」~イギリスにおける人殺しと裁判の歴史』

英国の事務弁護士ケイト・モーガン初の著書、草思社

『殺人者たちの「罪」と「罰」~イギリスにおける人殺しと裁判の歴史』読了。

原題はシンプルに MURDER:THE BIOGRAPHY

かの地における古来から現代までの正しい〈裁き〉を巡る考察。

 

 

英国の法律では人間を殺害する行為全般を「殺人(homicide)」と呼び、計画的犯意のある殺人を「謀殺(murder)」、計画的犯意のない殺人を「故殺(manslaughter)」というカテゴリーに分ける(日本でも旧刑法ではこのふたつに分類されていた)。これに加え、下位分類として交通事故による死や法人による殺人があり、いずれの事例にも容赦なく切り込んでいく[後略](p.395 訳者あとがきより)

 

 

イントロダクション――汝、殺すなかれ

「緋色の海が広がりだす」

 

 犯罪の話題と切り離すことが出来ない刑罰の問題。

 英国における刑法の変遷について。

 謀殺(murder)と故殺(manslaughter)の違い。

 前者は計画的、後者は一時的な激情から強行に及んだケースを指し、

 処罰に当たっては区別が必要であり、謀殺は犯罪行為(actus reus)=禁止行為と

 犯罪意図(mens rea)で構成されること。

 

第一章――決闘場

「……太陽が昇ってから星が現れるまで……」

 

 18世紀英国の裁判において謀殺と故殺の罪を区別する初期の試みがなされた。

 正当防衛及び武力で自らの名誉を守ろうとする決闘について。

 18~19世紀の英国で、裁判に殺人に至る理由が勘案されるようになり、

 被害者の振る舞い(挑発行為など)より加害者の行動に焦点が移されたこと。

 

第二章――悪の狂気

「青い悪魔に悩まされていると彼は語った」

殺人の物語はどれも本質的には怪談である。(p.107)

 

 英国では18~19世紀にベスレム王立病院や、それに類する施設が、

 異常な状況で他者の命を奪った殺人者の受け入れ先になった。

 心神喪失の申し立てをした者、

 国王ジョージ三世を暗殺しようとして未遂に終わった者――。

 スコットランドの木材旋盤工だったダニエル・マクノートンは1843年1月、

 ロバート・ピール首相本人と誤認して私設秘書エドワード・ドラモンドを銃撃。

 逮捕、起訴されたマクノートンは公判で心神喪失を訴え、

 医師の診察を経てベスレム王立病院に無期限で収容された。

 この無罪判決は社会を震撼させた。

 貴族院心神喪失に関するルールを定め、

心神喪失を根拠に抗弁を成立させるには、その行為を犯している時点で、被告人が精神の病のために理性を欠いた状態にあり、自身の行為の本質と特性を知らなかったこと、あるいは知っていたとしても、悪い行ないをしているとの自覚はなかったことが明確に証明されなければならない

 という《マクノートン準則》が適用されることとなった。

 

第三章――自治領の外へ

「じっとすること描かれた船の描かれた海を往くがごとく」

 

 1884年9月に発覚した、遭難した帆船ミニョネット号の乗組員が

 仲間の一人を殺害して食糧とし、生還した事件。

 当時は海での非常時にカニバリズムが発生するのは暗黙の慣習と受け止められ、

 被害者遺族までもが被告の減刑を嘆願したほどだったが、

 洋上で亡くなった人を止むを得ず食べることと、

 食べるためにまだ生きている人を殺すことを同じ扱いにしていいものかどうか。

 一方、20世紀後半には医療の分野について裁判所が生と死の問題に答えるため、

 法・科学・倫理の“地雷原”の行進を余儀なくされ、

 生命の尊厳を中心に発展した法的構造との格闘が繰り広げられた。

 具体的には、生後一ヶ月の結合双生児の一人を救うために

 二人を切り離す手術を行って、もう一人を死に至らしめたケースなど。

 

 

第四章――まかせてください、医者ではないので

「一本の金の糸がいつも見られる……」

 

 両大戦間の十年余りのうちに、裁判所の広範な介入によって

 英国の殺人法を取り巻く状況が激変した。

 低所得者の出産にスラムの開業医が携わり、凄惨な結果を招いた事件において、

 医師の過失とその隠蔽工作に、どんな罪名が付されたか→

 新たな刑法カテゴリ《重過失故殺》の誕生。

 また、自動車事故の発生と急激な増加によって

 〈無謀運転または危険運転による致死〉というまったく新しい犯罪が創設され、

 1960年に新たな道路交通法として法制化された。

 殺人法を変革するのはセンセーショナルな出来事よりも

 凡庸な業務の担い手のミスであること。

 第二次世界大戦後の英国は〈国の集合的良心〉を苛む事件に揺さぶられ続け、

 長く議論を招いてきた謀殺法が総点検される運びとなった。

 

第五章――収穫逓減とキャピタル・ゲイン

「こんなことになるとは思ってもみなかった」

 

 1955年の復活祭の日の夜、タヴァーンの傍の舗道で交際相手を射殺し、

 後に絞首刑に処されたルース・エリス。

 彼女はデイヴィッド・ブレイクリーに危害を加えるつもりで武装していたが、

 発砲のきっかけは相手からの侮辱だったので、

 謀殺ではなかったと裁判で主張したが、認められなかった。

 被害者から加害者への挑発行為をどう勘案するかという法律上の問題。

 あるいは遡ること三年前、1952年11月2日、二人組の若者が強盗未遂で逃げた際、

 デレク・ベントリーが相棒クリストファー・クレイグに

 「やってやれ(Let him have it)」と叫んで警官への銃撃を促した結果、

 シドニー・マイルズ巡査が即死した事件。

 ここで殺人を実行したのはクレイグだったが、

 唆したベントリーの罪名と処罰はどうあるべきだったか。

 これらを受けて1957年に〈殺人法〉が施行され、謀殺法の歴史上、

 最も重要な改正がなされた。

 明らかな殺意があり、謀殺罪の成立が避けられないケースでも

 心神耗弱が認定されれば謀殺罪が故殺罪に格下げされること、など。

 また、1969年には英国で死刑廃止が確定し、裁判所が頭を悩ますのは

 謀殺と故殺のボーダーラインと、

 真に謀殺犯と見なされるべきはどの被告なのかの二点に絞られることとなった。

 

第六章――HIRAETH(ヒーライス)

「……勢いよくジェット機のような轟音をたてて……」

 

 章題はウェールズ語で、英語にも直接翻訳可能な語がないという、

 今は失われたものや人に対する悲しみを伴なう郷愁・哀惜の念を表すとされる言葉。

 

en.wikipedia.org

 

 俎上に載るのは1966年、南ウェールズ

 アベルヴァン村(本書での日本語表記はアバヴァン)で起きた、

 炭坑近くの盛り土が長雨の影響で崩落し、麓の小学校を呑み込んだ事件。

 

ja.wikipedia.org

 

 これについてはスー・ブラック『死体解剖有資格者』第11章「惨事の衝撃」で

 初めて知ってショックを受けた。

 

 

 災害によって一般市民に危険が及んだ場合、

 安全を管理する立場の者・団体に適切に有罪を言い渡し、処罰するため、

 法律の見直しが検討されることに。

 1984年にはマーサーヴェール炭鉱で労働者たちのストライキが起き、

 支持者と不支持者が対立する中、

 走行中のタクシーに橋の上からコンクリートブロックが落とされる事件が発生。

 スト中の労働者二名が不支持者デイヴィッド・ウィリアムズを襲撃したのだったが、

 運転していたデイヴィッド・ウィルキーが亡くなり、

 後部座席にいたウィリアムズは無傷で、

 加害者二名にはウィリアムズに直接危害を加える意図がなかったため、

 裁判で謀殺か故殺かが争われた。

 あるいは〈ヨークシャーの切り裂き魔〉ピーター・サトクリフの責任能力の問題→

 この裁判の後、イングランドの殺人法が見直されることとなった。

 

ja.wikipedia.org

 

第七章――鏡に口紅

「法は曲げられぬ」

 

 1978年9月、13歳の新聞配達員カール・ブリッジウォーターが

 ウェスト・ミッドランズ州スタワーブリッジの空き家となった農家、

 通称《イチイ農家》で銃殺された。

 翌月、強盗とブリッジウォーター殺害の容疑で逮捕された四人組の男は

 終身刑に服すこととなったが、一貫して冤罪を主張し続けた。

 謀殺と見なされた際、機械的に最高刑を適用することの問題点が

 クローズアップされ、

 殺人法が法的判断のみならず政治的判断によって形作られる運びとなった。

 あるいは、1989年5月に起きた、継続的な暴力に苦しめられた

 キランジット・アルワリアが夫を殺害した事件について、

 量刑には被害者による“挑発の蓄積”と加害者の精神状態が考慮されるべきだと

 考えられるようになったこと。

 カール・ブリッジウォーター事件で有罪となった男たちが釈放された後、

 刑事事件再審委員会が事務所を設立し、

 誤審が疑われる事件を捜査する独立機関が設けられた。

 

第八章――法人

「空気はたっぷりあります」

 

 石油・天然ガスプラットフォームの爆発、地下鉄駅での火災、フェリー転覆、

 サッカースタジアム立見席定員オーバーによる圧死――等々、

 故人を死に至らしめたのが特定の人物ではない死亡事故について、

 英国で法人が裁きの対象となるまでの道のり→法人故殺法の成立は2007年(!)。

 

第九章――謀殺:手引き

「社会の進展に伴い……」

 

 英国の法曹界において謀殺と認識される事象と現実とのズレ,

 限定責任能力と被害者による加害者への挑発行為の新しい定義,法人故殺罪の適用,

 あるいは母親による嬰児殺しを取り巻く法律や

 危険な自転車運転致死罪導入の是非について。

 

――といった内容。

装丁や帯の煽り文句から、もっとセンセーショナルかつスキャンダラスな事件を

取り上げているのかと思いきや、グッと真面目な刑法と裁判の話でした。

日本もそうですが、事件が起き、それについて考えを巡らせることで

後から法律が作られる、言い換えれば、

法が現実社会の状況に追いついていないことが多々あるのだな、と。

ともかくも、英国では「謀殺(murder)」と「故殺(manslaughter)」の線引きが

重要視されるのだと理解しました。

日本も同様ですが。

個人的には後者であっても行為者に重大な落ち度があった場合、

あるいは特に若年者(未成年者)に危害を加えてしまった場合は

量刑を重くしてもらえまいか……などと考える次第。

 

ブックレビュー『蟇の血』

近藤ようこ による田中貢太郎「蟇の血」コミカライズを初めて読んだ。

 

 

恥ずかしながら長らくこの本の存在を知らず、

たまたまバッタリ出会って購入したという感じだが、原作は随分前に読んでいた。

怪談を蒐集し、怪奇小説を物した田中貢太郎の短編。

 

www.aozora.gr.jp

 

短くて素っ気ないが故に一層不気味な印象を残す、奇妙な作品。

それが近藤さんの独特の筆致で、

より妖美で奇怪な絵物語として新たな命を吹き込まれたかのよう。

序盤、主人公・三島譲(みしま・じょう)が同棲することになった不憫な若い女との

馴れ初めが、原作より丁寧に描かれている気がします。

 

しかし、見応えはありますが、本当に何だかわからない変な話です。

昔(大正時代)の都市伝説とでも言えばいいでしょうかね。

身許が不確かな美しい女と暮らすことになったエリート候補の青年が

先輩の家から帰る途中、駅への道順を訊ねてきた女性と同道することになり、

あれよあれよという間に不条理な展開に。

 

この奇妙な小説を知ったのは蜂須敦『怪奇譚』。

 

 

猟奇的な殺人事件や怪奇小説を巡る考察集。

語り口がどことなく馴れ馴れしい感じがして、

それが「狭い部屋で百物語でもしましょうか」的な雰囲気を醸しているのが、

テーマに相応しく、程よい不気味さ加減。

 

ja.wikipedia.org

 

……と、脱線しましたが、

原作⇒コミック版の順で読むと、より味わい深いかもしれません。

 

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

 

【続々報】追加納品+α完了。

またまた先日の話の続きです。

 

fukagawa-natsumi.hatenablog.com

 

架空ストアさんに在庫品の追加納品をしました。

 

store.retro-biz.com

 

また、拙作に限らず

各出品者さんの商品をお買い上げの方に同送されるフリーペーパーも

預かっていただきました。

 

架空ストアさん用フリペ。グレーの部分に書き下ろし掌編が載っています。

store.retro-biz.com

 

ネット非公開の書き下ろし新作ショートショート

「イル・フロッタント -îles flottantes-」を掲載。

短歌二十首連作『リバーシブル・エッグ(rebirthible egg)』から着想した、

このフリペでしか読めない小品です。

 

kakuyomu.jp

 

但し、当《antiparadis通信№0》が紛れ込んでいるかどうかは

時の運次第ということで。

もし入っていたら読んでやってください。

そして、当然ながら、見つけたとしても転載は固く禁じますゼ!!

 

といったワケで、まあ、何か買ってください(笑)💕