深川夏眠の備忘録

自称アマチュア小説家の雑記。

ブックレビュー『恐怖の正体――トラウマ・恐怖症からホラーまで』

昔は春日ファンを自称していたのですが、めっきりご無沙汰で。

『しつこさの精神病理』(2010年)辺りから、ちょっと説教臭くなってきたぞ

……と思うようになったせいか。

 

 

かなり長い間、手を出していなかったのですが、

先日、最新刊の紹介を某所で目にして「また読んでみるか」と思いまして。

 

 

『恐怖の正体――トラウマ・恐怖症からホラーまで』を購入、読了。

精神科医による〈恐怖〉を巡る考察。

 

 

第一章:恐怖の生々しさと定義について

恐怖の定義;①危機感,②不条理感,③精神的視野狭窄

この三つが組み合わされることによって生じる感情が恐怖という体験を形作る。

 

第二章:恐怖症の人たち

様々な恐怖症について。

対象となるのは本来危険ではないものなのだが、それを危険と認識し、

過剰反応する人たちがいる。

恐怖症とは、そもそも神経症の一種で、

当事者たちは普段から心の中に漠然とした不安や鬱屈を抱え込んでいると言える。

一般に、人間はそうした掴みどころのない曖昧な感じが苦手だからだ。

そこで、取り留めのない状況に苦しむよりは何か具体的な事象に苛まれる方が

気分が楽になる――こうしたプログラムの発動によって、

不快な体験の記憶や変形した忌避的感情などが現出すると考えられる。

 

第三章:恐怖の真っ最中

恐怖に際して、アドレナリンによる過覚醒が時間の減速をもたらし、

また、ストレスや痛みから〈死の危険〉が生じると、

エンドルフィンの分泌が心を鎮め、感覚を麻痺させる。

同時に脳内の連携システムにブレーキが掛かり、すると、

脳の各所が勝手に作動して様々な映像が脈絡なく脳裏に描き出されるらしい。

エンドルフィンはモルヒネの一種で、

絶体絶命状態におけるヒトの脳が絞り出す偽りの救いと言える。

精神分析家マイクル・バリントは著作『スリルと退行』で、

スリルを好む人たちをフィロバット(philobat)という造語で呼び、

反対に安全や安定にこだわる人たちをオクノフィル(ocnophil)と名づけ、

人間はいずれかの二種類に分かれるという説を唱えた。

 

 おそらくフィロバットたちはアドレナリンによる過覚醒に淫しているのだろう。スリルを愛し、危険とダンスを踊り、恐怖を手なずけることで全能感を味わいたいのであろう。そして臆病で地道なオクノフィルたちを蔑みたいのだろう。
 恐怖は人を圧倒することが多い。そうなると、だからこそ恐怖を軽くあしらってみたいと思う人間が出現するのは当然だろう。もっとも、その代償として命を失ったりするケースも出てくるわけだが、心配には及ぶまい。エンドルフィンが優しく当人を天国へ導いてくれるに違いないから。[p.87-88]

 

 

第四章:娯楽としての恐怖

ホラー小説・映画など、〈恐怖〉が娯楽になり得るのは何故か。

それは、娯楽として提供される〈恐怖〉は〈恐怖〉そのものではなく紛い物、

言うなれば〈恐怖〉における蟹ならぬカニカマだから。

しかし、我々に、極限を超えた事象がもたらす感覚、

あるいは臨界・究極といった概念に酩酊感を覚えることを求める傾向があるためでは

なかろうか。

 

第五章:グロテスクの宴

恐怖に近接するイメージ=グロテスクについて、映画や文学を引き合いに。

■グロテスクと認定されるべき事象三選;

 ①目を背けたくなる(しかし、しばしば目が釘付けになる)。

 ②そのようなものと一緒に自分はこの世界を生きていかねばならないのかと

  慨嘆したくなったり、震撼させられたりする。

 ③その異質さは、ときに滑稽さという文脈でしか受け入れられない。

とはいえ、著者はそうした物語が日常に紛れ込み、

退屈な毎日がささやかな恐怖で脅かされたり変質したりすることによって、

人が生きる意味を問い直せるのは好ましいと考えている模様。

 

第六章:死と恐怖

死者(遺体)には威圧感やグロテスクさがある一方、

死という事象には聖性あるいは超越性といった抽象的な要素、

もしくは下世話さと宗教性が縒り合わさった独特の雰囲気があること。

何故、死が恐ろしいのかというと、死には三つの要素が備わっていて、

それらが人を脅かすと考えられる(①永遠,②未知,③不可逆)。

死は恐怖の中でも別格だが、日常の中の些細な出来事によって

それがいつの間にかどうでもよくなってしまうことがあり、

そこに人間の面白さ・したたかさがあると言える。

 

 *

 

医師として生き死にの現場に立ち会ったり、

死にたい/死にたくないと訴える人の話を聞いたり、

あるいは趣味で様々な本を読んだり映画を観たりしている著者が綴った、

恐怖とは何かを巡るエッセイ――だったわけですが、

「逃れようのないというものが怖くて堪らない」

と頭を抱える人へのアドバイス記事を読んだ春日先生が、

辛いなら病院へ行って潔癖症ないし強迫性障害の治療を受ける=

適切な投薬を受ける方がずっと有効ですぞとおっしゃったところで

大いに頷きつつ笑ってしまった。

散文的な悩みも実は身も蓋もない診断名に収斂することが多いですからね。

薬を呑んで睡眠を取って食事して、仕事するなり家事に勤しむなり、

その上、趣味があるなら尚更結構、といった次第で。

恐怖を娯楽として消費できるのは当人の精神状態が安定している証拠だな、と

改めて思ったのでした。

 

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