深川夏眠の備忘録

自称アマチュア小説家の雑記。

ブックレビュー『心は孤独な狩人』

カーソン・マッカラーズ『心は孤独な狩人』(The Heart Is a Lonely Hunter,1940)

読了。

キリのいいところで休止して別の本を先に読む(3冊!)という暴挙に出たので

年を跨いでしまった……。

 

 

昨年『マッカラーズ短編集』を読んで感銘を受けた後、

この本の文庫版が発売されたので購入したのだった。

 

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1930年代末のアメリカ南部、いわゆるディープサウス中央部の町で繰り広げられる

群像劇。

タイトルはフィオナ・マクラウドの詩『孤独な狩人』の、

わたしの心は孤独な狩人、寂しい丘に狩りをする

という一節に由来するとか(Wikipedia情報)。

 

【主な登場人物】

 ミック・ケリー:下宿屋を営むケリー家の娘。

 バーソロミュー・ブラノン:ケリー家の近くの《ニューヨーク・カフェ》店主。

 ジョン・シンガー:ケリー家の下宿人の一人。聾啞の青年。

 ジェイク・ブラント:遊園地の機械保守を務めるアナーキスト

 ベネディクト・メイディー・コープランド:人々に尊敬される医師だが気難しい。

 

幼い弟たちの面倒を見ながら夜更けにカフェでタバコを買おうとする少女ミックと、

そんな彼女を窘めもせずタバコを売ってしまう店主バーソロミュー。

彼はミックに特別な視線を注いでいる。

だが、そんなことには気づかないミックは

新しい下宿人のシンガーさんに関心を寄せる。

ジョン・シンガーは聾啞者なのだが、手話と読唇術でコミュニケート出来、

必要に応じて筆談も行っていた。

自らは発話せず、黙って周囲の人々の言葉を読み取る、

物腰の柔らかく知的な雰囲気を漂わせるシンガーさんに皆が好意を抱いた。

しかし、彼の心を占めているのは、離れた町の病院に入院中の親友

スピロス・アントナプーロスだけだった……。

 

という具合に誰かが誰かを愛しているのだが、どうにも噛み合わない、

もどかしさに満ち溢れた物悲しいお話。

どんなに親しく、打ち解けたように見えていても、

実は人間は皆それぞれに孤独なのだ――というディスコミュニケーションというか

精神的な断絶の物語。

ピアノを弾きたい、作曲したい、ピアニストになりたい……と、

才能の片鱗を窺わせつつ大きな希望を抱くミックの前に立ちはだかる

家庭の経済問題という一大事。

家計を助けるために働かねばならない、すると、

一人きりで夢想に耽って創作に打ち込むことが出来ない……という事態が

何とも切ない。

そんな彼女の心の支えがシンガーさんだったのだけれども……。

ケリー家に打撃を与えた事件に銃が絡んでいるところが、いかにもアメリカらしい。

(子供の手が届くところに銃器を置いておくなよ大人はよꐦ)

少女が成長して否応なく大人の女性に近づいていく過程には

決まって痛みが伴う、そんなことを思い出させる、

ちょっぴり読むのが辛い、けれども読み切らずにいられない作品。

終盤、仕事帰りに《ニューヨーク・カフェ》で一服するミックは

今後の人生について腹を括ったかのようで、頑張れと声をかけたくなってしまった。

でも、エンディングって第二次世界大戦開戦直前の頃なのよね……。

 

ところで、読んでいて一番「ウッ」と思ったのは、

コープランド医師の娘でケリー家の料理番を務めるポーシャが

ミックに向かって放った言葉。

 

そして本を読めば読むほど、頭を煩わせるものが次々に増えていくんだ。本を読みすぎて、頭の中が悩みでこてこてに膨らんでいくんだ。[p.83]

 

うぁぁゴメンナサイ💧

 

そうそう、映画化されてもいたのですね(タイトルには聞き覚えアリ)。

 

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結構違う話になっちゃってるみたいけど、機会があったら観てみたい。

私の脳内イメージではミックって

このマッカラーズ本人みたいなヘアスタイルなんだけどな(カワイイ)。

 

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で、繰り返しになりますけれども、

『黄金の眼に映るもの』(これも映画化されていた……)の新訳、

出ませんかねぇ……。

 

 

最新ショートショート公開。

2024年の二発目、タイトルは「キンギョソウ」。

 

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カクヨム短編賞創作フェス③(最終回)《秘密》参加用の書き下ろし。

 

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ショートショートキンギョソウ」イメージ画 by Midjourney有料版

 

時間潰しにやって来た彼氏に幼稚園時代の思い出を語るヒロイン。

金魚とキンギョソウと謎のビニール袋の記憶……。

 

タイトルは金魚に似た花を咲かせるという植物の名前なのですが、

漢字表記「金魚草」でなくカタカナ書きであるところに含みがあるのデス。

おわかりいただきたい(笑)

 

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くるっぷ でも公開しております。

ご笑覧ください。

 

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最新(超)ショートショート公開。

2024年一発目、タイトルは「垂雪」。

しずりゆき、と読みます。

木の枝などから滑り落ちてくる雪のこと。

 

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カクヨム短編賞創作フェス①《スタート》参加用の書き下ろし……ですが、

この内容はちょっと無理があるかな💧(苦笑&反省)

 

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なんというか、悪い癖で、

多くの参加者がポジティヴで前向きで明るい話を書くだろうと

予測したら逆張りしたくなっちゃうんですよね。

 

ともあれ、ごく短い作品ですので是非ご笑覧ください。

イメージ画像はMidjourney有料版で作成。

 

掌編「垂雪(しずりゆき)」雰囲気画。

 

Romancer『掌編 -Short Short Stories-』にて縦書き版も公開しています。

お手数ですが目次から探してページを開いてください。

 

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喪中につき〔以下略〕

ご挨拶は省略させてもらいまして、と。

 

しばらくぶりにインド料理を堪能したのですが、

初訪問のお店だったのでした。

 

ナン&カリー🍛💕

 

メニュー名は失念しましたが、

トマト風味の強い、まろやかでスパイシーなチキンカレーをいただきました。

真ん中の白い物体は茹でたまごです。

大変美味しゅうございました(-人-)💕

 

それはともかく。

滞在時間45分くらいだったかと思うのですが、

BGMが……インドの音楽に違いなかろう、それはいい、それはいいんだ、

しかし、あまりにも長くないか?

だったのでした。

ヴォーカルが切れて演奏だけになって、ああ、もうエンディングだな、

と思いながら耳を傾けていると、また歌唱が始まる、その繰り返し。

何なんっ??

とは思えども、日本語でも英語でもないから内容はサッパリわからず。

そこでスマホGoogleアシスタントを起動し、聞き取ってもらったところ、

いくつか候補が上がってきたので、退店して帰路、

車内(助手席)でチェックしてみたのでした。

 

曲はコレでした。

 

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Shiv Amritvani なるトラディショナル歌謡らしいです。

但し、私が今夜のインド料理店で聞いたのは、

この曲(同テンポ&同リズム取り&同コーラス)ではありましたが、

ヴォーカリストは女性でした。

この曲を歌う女性歌手の中では

アヌラーダ・パウドワルという人が有名みたいで、

Shiv Amritvani Complete なる動画も発見したのですが(なるほど長尺💧)

聴いてみると声が違う。

 

youtu.be

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そのお店で流れていたのは Shiv Amritvani ロングバージョンで

Anuradha Paudwal ではない女性歌手が歌い、女性のコーラスが付いたものでした。

 

ああもうお腹いっぱいだ。

今夜は香辛料の香りに満ちた夢に魘されそうな予感……。

 

そんなこんなで、本年もよろしゅうおたの申しまする。

 

ブックレビュー『シェイクスピアの記憶』

J.L.ボルヘスシェイクスピアの記憶』(岩波文庫)読了。

収録作の三編は『バベルの図書館22 パラケルススの薔薇』(国書刊行会)で

既読だったが、本邦初訳の表題作のために購入・読了。

 

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一九八三年八月二十五日

深夜、宿泊するホテルに帰ったボルヘスはフロントで記帳を求められ、

首を傾げつつページに目を落とすと、真新しいインクの跡が自らの名を綴っていた。

宿の主は、よく似た別の客が既にいるが、あなたの方が若いようだと告げる……。

  *

バベルの図書館『パラケルススの薔薇』での初読時より、

もっさり・まったりした印象を受け、同時に何故か内田百閒風に感じられた。

初めて読んだときは、

忘れっぽいドゥルイ氏が繰り返しフロントで自身の部屋番号を訊ねるという、

ブルトン『ナジャ』(1928年)終盤の挿話(白水uブックス,p.156-157)を

想起した。

それはともかく、訳者解説によると、本作の執筆は1970年代末。

作中の語り手ボルヘス(1899/08/24-1986/06/14)が

「きのうで六十一になった」(p.12)と述べているので、

彼にとっての日付は1960年8月25日のはず。

だが、年老いた分身は「君はきのうで、八十四になったことになる」(同)と

応じているので、

現実の作者(70代後半)が過去の自分と近い将来の末期(まつご)の自分の想像図を

対面させている格好。

魔術的。

 

青い虎

1904年末にガンジス川のデルタ地帯で青い虎が発見されたとのニュースを読んだ

〈私〉ことアレクサンダー・クレイギーは、更に、

そこから離れた村にも青い虎の噂があると聞いて旅立ち、

山に入って無数の小石を発見した。

石は分裂し、増えたり減ったり。

村人はそれを「子を産む石」と捉えて、無限に増殖する可能性を恐れていた――。

  *

この世の理(ことわり)が通用しない、

言わば彼岸に存在する物質が我々の世界に顔を覗かせる恐怖は

「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」と共通するか。

訳者解説によると〈虎〉は、

芸術の象徴でありつつ現実の象徴でもあり、それゆえ宇宙が人間にとって整然たるコスモスではなく不条理なカオスであることを表すモチーフとなっている(p.136)

とか。

また、

村を抜け出して山の上で解放感を感じる論理学教師の姿に、〔政変を忌避して母国アルゼンチンから頻繁に国外へ旅した〕ボルヘスが重なってくるのだ(p.141)

とも。

 

パラケルススの薔薇

錬金術パラケルススことテオフラストゥス・フォン・ホーエンハイム(1493-1541)

の許に弟子入り志願者がやって来たが……。

  *

訳者解説によると、本作は

「トマス・ド・クインシーの語るパラケルススのエピソードに想を得ながらも」、
「人間には神の作った世界を変えることなどできない、

 神の力に対して人間ができることはほんのわずかである、

 という信念に基づいて錬金術を行う」由。

薔薇は灰になり、灰から蘇る。

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シェイクスピアの記憶

英文学者ヘルマン・ゼルゲルは

シェイクスピア国際会議で知人に引き合わされたダニエル・ソープから

シェイクスピアの記憶を差しあげましょう」と切り出された――。

  *

シェイクスピアの記憶を授けられたとしても本人に成り切れるわけではなく、

しかも、自分自身の記憶が押し流されてしまうことに恐怖を覚える、という話。

 

作者ボルヘス自身の鏡像と思しい主人公たちの驚きが静かだけれども瑞々しい。

旅と記憶と〈読むこと〉〈書くこと〉を巡る佳品群。

 

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最新ショートショート公開。

2023年の〆です。

3600字ほどのショートショートを書きました。

 

掌編「オンブロフォビア」イメージ画像 by Midjourney有料版。

 

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題して「オンブロフォビア」。

雨恐怖症、です。

 

ejje.weblio.jp

 

BGMには是非こちらを。

 

youtu.be

 

後でくるっぷにもアップする、かも……デス。

 

勢いに乗って久しぶりにカクヨム自主企画を立ち上げました。

題して《年またぎ🎍雨まつり☔》。

アカウントをお持ちの方は是非、参加条件をチェックしてみてください。

 

kakuyomu.jp

 

 

ブックレビュー『奇想版 精神医学事典』

春日武彦先生の最新刊『恐怖の正体――トラウマ・恐怖症からホラーまで』

読了後、既刊『奇想版 精神医学事典』というとびきり面白そうな本に飛びついた。

 

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クセのある精神科医(失礼!)による、

五十音順でもアルファベット順でもなく、

心の赴くまま連想に連想を重ねて綴られた事典形式のエッセイ集。

先生の趣味・嗜好がモロ出し(笑)で、

しかも一読者である私の好みにマッチする話題が多くて楽しかった。

 

例えば――

 

[神]p.7~8

 神は思いがけないところへ、不意に姿を現す。

 タイヤの表面に刻まれた溝がアラビア文字による「アラー」に酷似していた、

 あるいはバスケットシューズのデザインプリントがまたしても(略)といった

 メーカーの受難。

 不謹慎なようだが、どことなくボルヘスの作品世界を思わせるエピソード。

 

第一次世界大戦p.41~42

 美容整形が大きく発展を遂げた背景には、第一次世界大戦の勃発があったという。〔略〕
 第一次世界大戦はまた、本格推理小説の発展にも大きく寄与したという説がある。この戦争がもたらしたものとは、未曽有の大量殺人といった異常事態であり、この事実こそが人々の精神を変容させた。大量殺人や連続殺人、無意味な殺人や興味本位の殺人といったものの非日常性が薄まり〔略〕ヒトはいくらでも冷酷に殺人を犯せることが証明されてしまったのである。そのような心の闇の自覚と連動して、推理小説の黄金時代が訪れることになったのであった。
 美容整形と推理小説、どちらも他人を欺くといったベクトルを備えたジャンルが第一次世界大戦を契機に飛躍的な進歩を遂げたというのは興味深い。〔後略〕

 

三島由紀夫p.64~65

 三島由紀夫は運動神経が鈍かった。それはある種の不器用さとか身体感覚の欠落をも含む鈍さであった。〔略〕
 ボディビルで肉体を作り替えても、運動神経の鈍さは克服出来ない。〔略〕にもかかわらず三島はそんな自分を認めようとせず、マッチョな美学へとのめり込んで滅びていった。
 異論を申せば、彼は美食へと走ればよかったのである。ひたすら美味いもの、珍奇なものを食べ漁り、ぶくぶくと肥満していけばよかったのである。化け物のように肥ってしまえば、もはや運動神経の有無など意味を持たない人生を送ることになるだろう。劣等感を葬り去れるのだ。三島は鍛え上げた筋肉などではなく、美食でもたらされた脂肪を身に纏うべきだったのである。〔後略〕

 

[記憶] p.204

〔前略〕 激しい苦痛を感じたとしても、それが記憶に残らないとしたら、果たしてそれは苦痛として成立し得るものなのだろうか。忌まわしい思い出、辛く不快な体験として個人の記憶に棲みつかなければ、苦痛というものは存在しないのではないか。
 言い換えれば、人間は記憶によって延々と苦しみを背負い込む。記憶こそが人間の苦しみを司っていると考えるのは間違っているだろうか。

 

[アンダソン神話] p.281~283

〔前略〕 アンダソンの作品でもっとも有名なのは、「グロテスクなものについての書」という前書きを付された連作短編集『ワインズバーグ、オハイオ』(1919)であろう。〔略〕いわゆる南部ゴシックの源流に位置している。
 アンダソン神話と呼ばれるものがあり、高田賢一・森岡裕一編著による研究書『シャーウッド・アンダソンの文学』(ミネルヴァ書房、1999)所収の高田賢一「序にかえて――シャーウッド・アンダソンの人生」から引用してみる。

 

 1912年の11月末のある日、「長い間、川の中を歩いていたので、足が濡れて冷たくなり、重くなってしまった。これからは、陸地を歩いていこうと思う」と、謎めいた言葉を残してアンダソンは失踪する。小規模とはいえ塗料販売会社社長の地位を投げ捨てたばかりか、妻と三人の子どもたちのいる家庭も捨て、これからの貴重な人生を文学に捧げるべく、成功追求の世界に別れを告げたのである。この時、彼はすでに36歳になっており、ポケットにはわずか五、六ドルの金しか入っていなかったという。
 これが世に名高いアンダソン神話である。真相は会社の経営不振からくる心労のため、神経衰弱となっての発作的な行動だった。行方不明の四日後の12月1日、朦朧状態でクリーヴランド市内で発見され病院に収容される。後年、アンダソンはこの体験について、虚偽の生活を捨て、真実を追求するための脱出だったと好んで語ったため、「芸術という宗教」を奉じる1920年代、30年代の若き作家たちに多大の感銘を与えた。この多分に自己劇化された行動は、アンダソンの作品の主人公たちが繰り返す行為となる。

 

 おそらく彼は解離症状を呈したのだろう。〔略〕さもなければ解離性遁走(フーグとも言う)や解離性朦朧状態。いずれも、「わたしは誰? ここはどこ?」といった状態になってしまうので、責任もノルマも道徳もすべて自己破産状態となり、誰も追及するわけにはいかなくなってしまう。究極の居直りであり、〔略〕結果としてアピールしただけの甲斐はあったという結末を迎えることになる。
 実生活と文学との狭間で苦吟し、また36歳でまだ芽が出ないという焦りが解離症状へと結実したのだろう。この体験をむしろ自慢として語る態度に、アンダソンのグロテスクな自己愛を見ても良いのかもしれない。

 

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[ポルノグラフィー]p.343

 ポルノグラフィー(猥褻な興奮を引き起こすことのみを目的とした映像や文章。ポルノ)を見る(読む)者は、そこに表現された個別性ではなくパターンに反応する。自分がお気に入りの「卑猥なパターン」がしっかりと現出しているか否かだけが、価値を決めるポイントとなる。言い換えるならば、そのパターンは既にわたしたちの頭にインプットされているのである。たまには「そんなポーズもあったのか!」といった調子で目新しく感じることもあろうが、実は薄々そのようなものをも予感し期待していた筈である。そう、頭に棲み着いていた猥褻なイメージを、他人を介してあらためて「なぞり」、確認することで我々には強烈な満足感が生じる。
 本来、ポルノを楽しむのはきわめて孤独な営みである。秘密厳守が前提である。にもかかわらず、脳内のイメージをわざわざ他人が再現してくれることで興奮するのである。いやはや人間は面倒な生き物だと思わずにはいられない。誰もが、自分の頭の中にポルノグラフィーを寂しく携えて日々を送っているのだ。

 

フェティシズムp.536~538

 拝物愛、物件恋愛、淫物症、節片淫乱症などと呼ばれたこともある。物神(魔術的な力を備え、非合理的崇拝の対象たる呪物)fetischという言葉からの派生語である。
 フェティシズムはほぼ男性に限定され、女性が身に着ける下着、ストッキング、靴、帽子、衣服などに激しい性的刺激を覚えオーガズムを感じる状態を指す。そしてしばしばそれら対象物はコレクションされる(ときには下着泥棒などの形で)。蒐集行為そのものが支配欲の充足や性的興奮につながるのであろう。
 性的倒錯の一種とされ、しかし正常な性行為においてもフェティシズム的な嗜好は少なからず見出される。つまりフェティシズムにおいて正常と異常の境目ははっきりしない。おそらく「生身の」女性と向き合うよりもモノだけのほうが快楽を得やすくなった段階で異常とされるのだろう。〔後略〕

 

[健脳丸]p.542~543

 明治29年、丹平製薬によって発売された売薬。効能は「脳充血、逆上、神経痛、眩暈、脳膜炎、頭痛、顔面神経痛、ヒステリー、耳鳴り、癲癇、不眠、中風卒中、ひきつけ、便秘、健忘、その他脳神経病一切」となっており、脳・精神・神経関連の症状が羅列されているが、唯一「便秘」という頭とは無関係な症状が含まれているのに注意されたい。健脳丸の成分は臭化カリウム、ゲンチアナ、大黄、アロエであり、それらの中で臭化カリウムのみが向精神作用を示し(抗不安作用、抗痙攣作用)、他は便秘や健胃薬として用いられるものである。〔略〕
 なお健脳丸に似た売薬としては快脳丸が有名で、それは広告に「頭脳の不完全なる者は馬鹿であります」という有名な鬼畜コピーがあるからに他ならない。

 

式場隆三郎p.567~569

〔前略〕 1898年(明治31年。画家のルネ・マグリットや作家の井伏鱒二が同年生まれ)・新潟県出身、新潟医専卒。〔略〕38歳で千葉県市川市国府台に国府台病院(現・式場病院)を建てて院長となった。同時に建設された自宅には、柳宗悦濱田庄司河井寛次郎会津八一などが関わっている。同病院には広大な薔薇園があり、精神科病院と薔薇園の対比に感銘した中井英夫はそれをモデルに小説『とらんぷ譚』で流薔園なる精神科病院を登場させた。〔後略〕

 

 これは知らなかった……いや、どこかで読んだことがあったかもしれないが、

 失念していたのだろう。

 

 

 そして、式場隆三郎と言えば二笑亭(p.569~570に項目あり)。

 

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といった具合に、遊園地の鏡の迷路を、おっかなびっくり

ドキドキワクワクしながら手探りで進む感覚を味わったのだった。

 

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