ボルヘス自身の編纂による『バベルの図書館』叢書22.「パラケルススの薔薇」読了。
調べ物をしていて、ふと、
この本にボルヘスの未読の小説が収録されていることを思い出したので
古書を購入(良心的価格でした、ありがたや……)。
先日読了したアンソロジー『ダブル/ダブル』に「権利の問題で採録できなかった」
という「August 25」(1983年)は、こちらに入っていた(更にありがたや……)。
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■一九八三年八月二十五日
深夜、宿泊するホテルに帰ったボルヘスはフロントで記帳を求められ、
首を傾げつつページに目を落とすと、
真新しいインクの跡が自らの名を綴っていた。
部屋は19号室。
宿の主は、よく似た別の客が既にいるが、あなたの方が若いようだと告げる……。
語り手ボルヘス(1899/08/24-1986/06/14)が
「きのうで六十一になった」(p.17)と述べているので、
彼にとっての日付は1960年8月25日のはずだが、年老いた分身は
「君はきのうで、八十四になったことになる」(同)と応じる、
23歳上の先輩(笑)なのだった。
ところで、タイトルは
レオ・ペルッツの「一九一六年十月十二日火曜日」を
意識していたのでは? との指摘を某所で目にして、
この作品の題名にも曜日が付いていたらどうだったろうかとニヤニヤした。
それから、忘れっぽいドゥルイ氏が
繰り返しフロントで自身の部屋番号を訊ねるという、
ブルトン『ナジャ』(1928年)終盤の挿話(白水uブックス,p.156-157)を
想起。
種村季弘曰く(『吸血鬼幻想』p.190)――
> たえず自分の住むべき部屋の番号を忘れ、同一性から排除されるドゥルイ氏は、
> 同一性の追求に急なあまり窓から転落し、
> 血まみれの「人間とは思えない」ような(つまり吸血鬼そっくりの)姿で
> 立ち戻ってくる。
そう言えば、1960年の後輩ボルヘスも1983年の先輩ボルヘスも、
二人ながら幽霊めいていないだろうか?
ついでにもう一つ、部屋の番号から、
幸福で、何もかも上手く回り過ぎているため、
却って人生の主役である自分がその場に不要であるかのように錯覚し、
異様な行動を取る主婦の物語、
ドリス・レッシングの「十九号室へ」(1963年)を思い出したが、
これは無関係か?
■パラケルススの薔薇
テオフラストゥス・フォン・ホーエンハイム(1493-1541)の許に
弟子入り志願者がやって来たが……。
薔薇は灰になり、灰から蘇る。
■青い虎
1904年末にガンジス川のデルタ地帯で
青い虎が発見されたとのニュースを読んだ「私」は、
更に、そこから離れた村にも青い虎の噂があると聞いて旅立ち、
山に入って無数の小石を発見した。
石は分裂し、増えたり減ったり。
村人はそれを「子を産む石」と捉えて、無限に増殖する可能性を恐れていた。
この世の理が通用しない、
言わば彼岸に存在する物質が我々の世界に顔を覗かせる恐怖は、
「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」と共通するか。
■疲れた男のユートピア(再読)
『砂の本』で読んだはずだが、記憶になかった、何故だ。
未来へタイムスリップしたエウドロ・アセベド(70歳)は
名前を持たない男と書物を巡る対話を交わす。
言語は引用のシステムであり、我々には最早、引用しか残されていないのだった。
そう言えば岡崎京子も『ジオラマボーイ★パノラマガール』あとがきで、
> 今やわたくし達のつたない青春はすっかりTVのブラウン管や
> 雑誌のグラビアに吸収され、つまらない再放送をくりかえしています。
> そしてわたくし達の出来ることときたら
> その再放送の再現かまねっこ程度のことです。
と書いていたっけな。
ブラウン管とは懐かしい(笑)。
■等身大のボルヘス
作家マリア・エステル・バスケスによる
ボルヘスへのインタビュー音源からの書き起こし。
成育歴と作家としての信条について。
インタビュー中、最もグッと来た(共感できる)
ボルヘスの言葉は――(p.131)
私は身も心も滅びたいと願っています。
死後に他人が私を記憶している、という考えすら気に入りません。
死んで、私自身を忘れ、他人からも忘れられることを私は望んでいます。
■年譜・書誌