カーソン・マッカラーズ(Carson McCullers/本名 Lula Carson Smith 1917-1967)の
中短編小説集『マッカラーズ短篇集』(ちくま文庫)読了。
旧・白水uブックス『悲しき酒場の唄』収録作&新訳4編の全8編。
昔、ある先生がエッセイでいくつかのマッカラーズ作品に触れていて、
ずっと興味を持っていたのだが、
絶版ばかりで入手難易度が高かったのを覚えている。
その作風紹介ではアメリカ南部の風土を反映した独特のけだるさのような事柄が
強調されていた(と記憶する)けれども、読んでみたら、
なるほど当時若かった女性が書いたのだな、と感じさせる瑞々しさ。
状況の悲惨さや絶望的な環境にばかり焦点が当たっているのかと思い込んでいたが、
むしろユーモアとペーソスに満ちた、悲しくて、ちょっぴりおかしな物語群だった。
以下、ネタバレするような、しないような感じで各編についてつらつらと。
- 悲しき酒場の唄(The Ballad of the Sad Cafe)
- 騎手(The Jockey)
- 家庭の事情(A Domestic Dilemma)
- 木、石、雲(A Tree,a Rock,a Cloud)
- 天才少女 - ヴンダーキント -(Wunderkind)
- マダム・ジレンスキーとフィンランド国王(Madame Zilensky and the King of Finland)
- 渡り者(The Sojourner)
- そういうことなら(Like That)
悲しき酒場の唄(The Ballad of the Sad Cafe)
寂れた田舎町の中心にあるいびつなあばら家の窓から時折外を見下ろす灰色の眼。
遠目には性別も定かでないその人は、
かつてそこで町唯一の酒場を経営していたアメリア・エヴァンズという女性だった。
彼女の店はどんな風だったのか、また、何故廃業してしまったのか――。
*
父親から受け継いだ自家醸造所の酒・その他を販売し、
質のいい品物目当てに集まる客が多くいた。
ある晩、親類を自称するライマンなる見すぼらしい小男が不意に現れ、
居着いてしまった。
常連たちの予想に反して、アメリアは甲斐甲斐しくライマンの世話を焼き、
彼はあっという間に主ででもあるかのように尊大に振る舞うようになり、
いつしか店は自然な流れで客に酒食を供する酒場へと趣きを変えた。
そこへ昔ほんの短い間だけアメリアの夫だったマーヴィン・メイシーが
仮釈放で出所し、舞い戻った。
マーヴィンはアメリアに首ったけだったが彼女はそうではなく、
結婚生活はあっという間に破綻し、彼はヤケを起こして犯罪に手を染めたのだった。
アメリアに対して可愛さ余って憎さ百倍といった心情のマーヴィンは
わざわざ彼女の酒場に足を運んだ。
しかし、ライマンはマーヴィンを疎むどころか、
むしろ彼の粗暴さや犯罪の匂いに惹きつけられるらしかった。
そして、アメリアはそんなライマンの挙動に心中穏やかならぬものを感じていた……。
*
物悲しくもどこかおかしい、乾いた笑いを引き起こす奇妙な物語。
ほとんどだれでもが愛する者になりたがる。本当のことをはっきり言ってしまえば、愛されているという状態は、多くの人にとって耐えがたいものである。愛される者は愛する者を恐れ憎むが、これもまったく無理からぬことだ。なぜならば、愛する者はたえず愛される者の衣をはいで裸にしようとするからである。愛する者は愛される者を相手に、ありとあらゆる関係を持とうと熱望する。たとえその経験が愛される者には苦痛しかもたらさないとしても。(p.48)
騎手(The Jockey)
負傷によってキャリアをフイにした仲間を想い、
彼への侮辱を許さない騎手ビッツィー・バーロウは、
調教師シルベスターとノミ屋シモンズと馬主である金満家に食ってかかった。
シルベスターとシモンズはバーロウが単に面倒見がいいだけでなく、
当の仲間と特別な関係にあるのではないかと勘繰り、
それを嘲弄するかのような口ぶりだった。
粗暴な態度で名誉を守ろうとするビッツィーは精神の未熟さを露わにしているが、
そもそも彼らを愚弄する側が悪いと言える。
家庭の事情(A Domestic Dilemma)
マーティン・メドウズの妻エミリーはアラバマからニューヨークへ引っ越して以来、
環境に馴染めずアルコール依存に陥っていた。
マーティンは幼い子供たちの世話も疎かにする妻に怒りを覚えつつ、
彼女を見捨ててしまうには、まだ愛情が勝(まさ)っており……。
木、石、雲(A Tree,a Rock,a Cloud)
雨の降る早朝、新聞配達の少年が終夜営業の酒場にコーヒーを飲みにやって来た。
常連の他に見慣れぬ客がいて、少年を呼び止め、
唐突に「愛」について語り始めた……。
結婚生活が破綻したらしい、その男は、
他者に愛情を注ぐためには準備期間が必要で、
まず木や石や雲を愛せるようになってから人間と向き合わねばならないという
独自の哲学を語って聞かせた。
*
おじさんの理屈はわからなくもないが、
そんなしょうもないことを考えず労働する少年の方がずっと偉い気がする。
天才少女 - ヴンダーキント -(Wunderkind)
15歳のフランセスはビルダーバッハ先生にピアノを習っていた。
将来を有望視され、熱心に練習して来た彼女だったが、
その冬の日は様子がおかしかった。
散々考え込み、様々な回想を経て、いつもどおり熱心に指導しようとする先生に
「できません」
「どうしてだかわからないんです。でもできない――もうできないんです」
と訴え、退出するフランセス。
天才少女という華やかな枕詞が自分に相応しくなくなったと感じ、
挫折を覚えたのか。
しかも、どちらかというと〈天才〉より〈少女〉でなくなったと気づいたことに
ダメージを受けたかのよう。
ピアノの才能がある点を除けば無邪気な普通の女の子だったはずの自分が
心身共に着実に大人への階段を上り始めていると意識したのが
躓きのきっかけだったか。
それは他でもないビルダーバッハ先生を恋愛対象として意識しつつ、
感情を抑制しようとする態度に窺える。
先生は既婚者なのだ。
マダム・ジレンスキーとフィンランド国王(Madame Zilensky and the King of Finland)
ライダー・カレッジは音楽部長ブルック氏の尽力で
作曲家・教育者として名高いマダム・ジレンスキーを教員に迎えた。
ブルック氏は三人の男の子たちを育てているマダム・ジレンスキーの
住居の手配をし、世話を焼くことになったが、
彼女にはどこか風変わりなところがあり……。
*
ブルック氏がマダム・ジレンスキーの嘘を指摘した瞬間、
お馬鹿ホラー映画『ラストサマー2』の
ブラジルの首都はリオデジャネイロではない、ブラジリアだ!
を思い出した(笑)。
渡り者(The Sojourner)
原題は〈短期滞在者〉の意。
方々を飛び回っていたジョン・フェリスは父の葬儀のため故郷へ戻った後、
ニューヨークのホテルへ。
偶然、窓の外を元妻エリザベスが通り過ぎたのを見た彼は
追いかけようとして何となく歩調を緩め、諦めた。
ホテルに戻ってから電話して――連絡先は手帳に控えてあったのだ――
明朝パリへ発つので今日会えないかと言うと、
エリザベスは短時間でよければと応じてくれた。
ジョンはエリザベスが現在の夫ビル・ベイリー氏と子供たちと共に暮らす住居へ赴き、
当たり障りのない会話を楽しんだ。
*
それぞれの心の傷が、さほど長くない年月によって早くも癒されている、
といったところ。
前夫を食事に招く妻、その不意の客を温かく迎える現在の夫――というのは、
一般的な日本人の感覚からすると信じ難い気がするけれども、
幸福に暮らし、信頼し合っている夫婦だから可能なことだったのか。
また、原著の発表が1951年であり、
本文中、ジョンがアドレス帳を繰って古馴染の名を確認するところで、
微かに戦争(第二次世界大戦)に想いを馳せる瞬間があるので、
立ち直って前を向くために手を取り合わなければ……といった世の中の空気も
ベイリー夫妻にジョンを優しくもてなす後押しをしたのかもしれない。
そういうことなら(Like That)
13歳の生意気盛りの少女の目に映る姉の姿。
五つ年上の姉マリアンは大学生タックと交際しているが、近頃様子がおかしい。
口数が減り、無邪気にはしゃぐこともなくなり、落ち込んだ顔をして……。
*
妹(語り手)は姉の変化が何に由来するのか訊かずとも敏感に察しながら
口には出さず、心の中で悪態をつく。
「大人になるのがそういうことなら真っ平ごめんだ」と。
姉は恐らく恋人に性交渉を迫られて踏み切るべきか迷っている、
あるいはもう事に及んだ結果、後悔しているかのどちらかだろう。
姉は18歳なのだから自らの責任において今後どうするか決めればよいのだが、
思春期の妹には彼女が自由を奪われ、鬱々としていると感じられ、
自分は「年頃になったら相応の(異性の)相手と付き合って将来を考えるがよし」
という世間の風潮に抗おうと気炎を吐くのだった。
恋人の存在に由来する幸福感・安心感の裏には
常に性にまつわる不安と恐怖感が貼り付いている。
愛の行為は人を幸せにすれば不幸に陥れもする。
但し、異性愛の関係において身体にダメージを受けるのは
きまって女性である、という点に留意すべし。
といった感じで、短いけれど濃いぃくて独特のおかしみがあって、
よい読書体験となりました。
それにしても『黄金の眼に映るもの』の新版、出ませんかねぇ。