例によってブクログと重複しますが、こちらの方が情報量が多いです、濃い目。
先日読んだ『医療短編小説集』に既刊案内が出ていて気になったので、
その中のどれでもない、名付け得ぬ欲望を表してもいて、
QはLGBTを補完すべき要素――と、監訳者は述べる。
この本は根底に名付け得ぬ欲望を抱えた、
不思議で奇妙な味わい(=queer の原義)の作品を集めたアンソロジー。
表紙に採用されたのは印象派の画家
ギュスターヴ・カイユボット(1848-1894)の「床削り」。
カイユボット作品の題材や雰囲気にクィア性を認める評が多いと解説にあり、
その意味を考えながら読んでみた。
以下、収録全8編について、ネタバレしない範囲(?)で、つらつらと。
■ハーマン・メルヴィル「わしとわが煙突」 I and My Chimney(1856年)
屋敷の不格好かつ全体の調和を乱す煙突を、
妻や娘たちやその他の人々に文字通り煙たがられ、
撤収すればもっと屋内を広く活用できるのに……と、責められ続ける《わし》は、
しかし、《わが煙突》は敬意を払うべき上官のごとき存在であって――と、
のらりくらり、皆を煙(けむ)に巻き続ける。
ただそれだけの、とぼけた味わいの話で、
本文(原文)にも「風変わりな」の意で queer の語が登場するが、
どこが性愛に関連するのかと思いつつ、ぼんやり読み過ごしたら、
解説に目を通して「あっ!」。
語り手は結婚していて子もいる壮年の男性だが、
心の中の優先順位は常に家族より自らとその分身(!)が上であり、
しかも、当人にも何故そうなのか説明がつかないのだった。
煙突の「灰落とし穴」=灰孔,灰溜めを指す ash-hole と言う語も
気になる……(笑)。
■アンブローズ・ビアス「モッキングバード」 The Mocking-Bird(1891年)
作者自身が謎めいているなぁ……。
子供の頃、怪談アンソロジーで「店を守る幽霊」という短編を読んだのが
印象深い――と思って、検索したら、
この作品は「シロップの壺」というタイトルで
光文社古典新訳文庫に収録されているそうだ。
(脱線したが元の流れに戻す)「モッキングバード」は、1861年、南北戦争の渦中、
北軍のウィリアム・グレイロック一等兵に降りかかった不思議な出来事。
彼は敵兵の銃撃に成功したと思ったが……。
家庭の事情というミクロな悲劇と、
戦争というマクロな悲劇に翻弄された兄弟の再会――だが、
それは本当に起きたこと(虚構内現実)だったのだろうか。
タイトルが象徴するように、
事件はウィリアムの心の鏡に映った出来事だったのでは、という気もする。
「赤毛連盟」 The Red-Headed League(1924年)
シャーロック・ホームズは見事な赤毛の男性ジェイベズ・ウィルソンから
奇妙な体験を聞いた。
百万長者だった赤毛の男が遺産を同じ赤毛の男性に分け与えるために創立した
『赤毛連盟』の一員となり、
簡単な仕事で割のいい報酬を得ていたのだが、突然連盟が解散したという――。
子供の頃にジュニア向け翻訳版で読み、大人になってから通常版でも読んだので、
これで何度目か。
しかし、クィア要素云々については、今回読むまで意識していなかった。
「三人のガリデブの冒険」 The Adventure of the Three Garridebs(1924年)
このタイトルを目にする度「痩せてるのか太ってるのか、どっちやねん!」
とツッコミたくなるのは日本人だけですかね。
浄瑠璃なら差し詰め、三人痩肥廓初買……ってとこかと(←違うよ!)。
(また脱線したが戻る)
博物学者ネイサン・ガリデブがシャーロック・ホームズに持ち込んだ不可解な相談。
ガリデブ姓の男性が三人揃えば莫大な財産の分け前に与れるというのだが、
引きこもりのネイサンを外へ誘き出すのが犯人の目的と悟ったホームズは――。
「赤毛連盟」と基本的な仕組みは同じ。
事件に立ち向かうホームズと、
彼を支えるワトソンのクィア的関係が浮き彫りになっている作品とのことだが、
そこは改めて指摘されるまでもなく先から承知しており、逆に言えば、
同性愛的な雰囲気を纏いがちであり、
その先駆がホームズシリーズだったと受け止めると何だか胸が熱くなる(笑)。
(不埒にして不遜なCMを紛れ込ませたことをお詫びします)
■[伝]オスカー・ワイルド「ティルニー」 Telney(1893年)
作者は複数人で、宣伝効果を狙ってオスカー・ワイルドの名を掲げたか?
と目される、男性の同性愛を扱った官能小説――の抜粋。
語り手カミーユ・デ・グルーがパリで出会ったピアニストのティルニーと
紆余曲折を経て結ばれたが……という部分。
内容そのものよりも、同性愛行為が違法とされていた時代・地域【*】に、
それを主題とする長編小説が出版されていた(地下出版?)ことに驚きつつ、
性愛×美食の描写からマンディアルグ『城の中のイギリス人』を思い出した。
ところで【*】
男性同士の性行為が犯罪と見なされなくなったのは1967年だったとか。
■ウィラ・キャザー
「ポールの場合――気質の研究」 Paul's Case: A Study in Temperament(1905年)
ピッツバーグ高校に通うポールは、わざと自分を周囲から浮いた存在にしていて、
いわゆる不良ではないが親や教師に従わず、
クラスメイトとも打ち解けようとしない、奇妙な振る舞いを見せていた。
彼は劇場で案内係のアルバイトをしていたが、格別芝居が好きでも、
役者に憧れているでもなく、単にその場の空気に身を置きたいがためだった。
授業中の態度の悪さなどが元で退学に至ったポールは就職したが、ある日……。
周りに馴染めないというより、
親や家庭も含めて環境が自らに相応しくないと感じている少年の物語。
そこから抜け出して、自分にピッタリな美しい世界へ飛び込みたいと
思っているのだが、何かを創造したいわけでも、他者の役に立ちたいのでもなく、
勉強にも不熱心で、
ただ豪奢でスノッブな雰囲気に憧れているだけ――という空虚さ。
しかし、虚飾で自身を固めるためには元手がいる……。
馬鹿馬鹿しい話と言えばそれまでだが、
自分の居場所に違和感を覚え、現実を最適化せんと腐心する少年の、
上辺だけを整えようとする空っぽな心の動きが妙に胸を打つ。
それは、この場は自分に似つかわしくないという考え方について
身に覚えがあるせいか。
ジャン・コクトー『恐るべき子供たち』(1929年)を連想したが、
親友や憧れの同級生がおらず、魂を分け合ったような姉も持たなかった分、
こちらのポールの方が不幸かもしれない。
萩尾先生のコミック版は原作理解の助けになってくれるので、お勧めだ。
で、話を戻すと、
ウィラ・キャザーはピッツバーグ高校で教鞭を執った経験もあったとか。
「彫刻家の葬式」 The Sculptor's Funeral(1905年)
彫刻家ハーヴェイ・メリックが亡くなり、
弟子のヘンリー・スティーヴンズは遺言に従って
遺体を師の故郷であるカンザス州の小さな町へ連れ帰った。
メリック家の面々、及び、幼少年期のハーヴェイを知る地元の人々の言い草に
違和感を覚えるヘンリー。
閉鎖的な田舎町の、
住民同士の利益のためには不正を働くことも厭わない彼らの許を離れて
大成したハーヴェイは、しかし、それでも最後はそこへ帰るしかないのだと
愛憎と諦めに満ちた言葉を今わの際に吐いていた。
「ポールの場合」とは逆に、環境の方が少しどうかしているケースだが、
忌まわしい空間から抜け出して独立した芸術家であっても、
やはり自分自身もその土地の一部だと認めざるを得なかったという悲劇。
ハーヴェイの才能や人柄を理解していたのは
弁護士のジム・レアードだけだったが、終盤の叙述から、
ハーヴェイとジムの間には特別な心の交流があったらしいと察したヘンリーが、
ジムに詳しく話を聞きたいと思ったものの果たせなかったことがわかる。
■ジョージ・ムア「アルバート・ノッブスの人生」 Albert Nobbs(1918年)
長編『物語作家の休日』第45~第53章抜粋。
作者自身がアイルランド、メイヨー州ウェストポート滞在中に出会った
アレック・トラッセルビィと互いに物語を話すという小説の一部で、
ジョージ・ムアがアレックに、ダブリンのモリソンズ・ホテルのウェイター、
アルバート・ノッブスについて語るパート。
肉体と心の性別が一致していないので外見を内面に合わせるGIDの人ではなく、
職を得るため異装に身を包み、
性別を偽って暮らさざるを得なかった人物のエピソード。
心意気はともかく、実際問題、周囲の目を欺くことなど可能だろうか……
と思ったら、解説によれば、アイルランドで女性が医師になれなかった時代に、
名前を変え、男装して医大に入学し、軍医として働き、
死後、本当は女だったことが明るみに出た人がいたのだそうで、
あながち絵空事とも言えないようだ。
小説のキャラクターも、
誤魔化しと後ろめたさが交錯する中で懸命に生きようとする姿が滑稽であり、
同時に真摯で、何とも言えないおかしみを漂わせている。
……といった調子で、本書所収の作品は、
同性愛や性別違和といった括りにも収まり切らない奇妙な味に満ちていて、
非常に読み応えがあったのだった。
登場人物の氏名・年齢・性別がはっきりしていないと内容が頭に入ってこない
――なんていう、自称読書家(?)にしては読み下手な御仁に、
こういう本でいろいろ勉強してもらいたいものだ……と思ってしまった。
まあ、好みは人それぞれですけれども。
しかし、小説の書き出しが「俺は佐藤一郎(仮)27歳、会社員だ」
といった調子だったら、私ならその段階で当の本をブン投げますけどね(笑)。