⑤186*年のカーニヴァルの夜、
「私」と「友人C…」はオペラ座で出会った若い女性三人組と意気投合し、
酒宴を催すことになったが、
もう一人男性がいた方が都合がいい――といったわけで、
これまた偶然居合わせた30代半ばの男に声をかけたが、
彼「サチュルヌ」こと「フォン・H…男爵」と「私」は、
かつてドイツ旅行中に行き会ったことがあった。
ところが、豪華な夜食を前に男爵の話を聞くうち、
「私」はもっと別の場所で既に彼を見たはずだと思い至る……。
※ある種の偏執狂の話。
⑥劇作家の夜食会にて、「D…氏」は立会人になった、ある決闘について語った。
青年の死は悲劇に違いないが、物語としては甚だ陳腐としか言いようがなかった。
しかし、後日「私」が知人に「D…氏」から聞いたままを伝えると……。
凡庸な現実の事件は口伝てに語られることで非凡なストーリーに昇華した。
ちなみに、ボルヘスの序文によれば、
これはリラダン自身の「残酷物語」のパロディらしい。
⑦愛し合うダトール伯爵とヴェラ夫人だったが、夫人は愛の営みの最中に死亡。
妻の死を認められない伯爵は先祖伝来の廟の扉を施錠し、鍵を投げ捨てた。
彼は老いた召し使い一人を残して使用人に暇を出し、
一切の交際を絶って亡妻の幻影と暮らすことを選んだが……。
※脱線するが、中井英夫『薔薇への供物』自作解説「薔薇の自叙伝」には、
中井氏がこの作品に因んで交際相手の女性を
ヴェラと呼んでいた(1967年頃)ことが記されている(p.200-204)。
Qui verra Véra l'aimera ――ヴェラを見た人は彼女が好きになる――
*
時代が古いせいもあるのだろうが、
雰囲気は掴めるし、とても好みに合うのだけれども、
「希望」と「ヴェラ」以外はオチがストンと胸に落ちてくれず、
何度もページを捲り直す羽目になった(作者の思うツボか?)。
昔、長編『未来のイヴ』を面白おかしく楽しんだので、
短編集は楽勝だろうと考えたのが甘かった。
新訳も出ましたね。
……あれ?
もう紙の本は品切れか??
ところで、昔、中井英夫氏が、
リラダンは斎藤磯雄先生の翻訳しか認めない!
それも旧字・旧かな遣いのままでなければな!!
――といった趣旨のコメントを発していたと記憶しているが、
出典を失念した。
どこで読んだんだっけ……。