英国の法人類学者・解剖学者、スー・ブラック博士の回顧録
『死体解剖有資格者』(草思社)読了。
原題は ALL THAT REMAINS だが、
日本語読者の好奇心をそそる若干いかがわしい邦題となっている(そこがnice)。
終始ウィットとユーモアに満ちた筆致の大著。
法人類学は、個人の死体を通じてその人の生前のストーリーを復元させることで、人間の生にも死にもかかわりを持つ学問である。本書は、法人類学と同様に、分かちがたいほど密接につながった同じ連続体の二つの異なる部分、すなわち人間の生と死がテーマになっている。(p.27:プロローグ)
訳者コラム(p.29)によれば、法人類学(forensic anthropology)とは、
人類学的見地から人種や年齢、性別等の身体的特徴を識別する方法を用いて
白骨死体や腐敗・損傷死体の個人情報を抽出・研究する学問。
法人類学者は医師ではないので、死体検案書の作成はできない――
とのこと。
- プロローグ
- 第1章 無言の教え人
- 第2章 細胞と人間
- 第3章 近親者
- 第4章 身近な人の死
- 第5章 灰は灰に
- 第6章 骨よ、骨よ、骨よ!
- 第7章 遙かなる想い
- 第8章 御屍(おんかばね):遺体発見
- 第9章 死体損壊
- 第10章 コソボ
- 第11章 惨事の衝撃
- 第12章 運命か、恐怖か、それとも強迫観念か
- 第13章 理想的な解
- エピローグ
プロローグ
イギリスでは法人類学者は科学者と位置付けられており、
死体解剖有資格者であっても、医師ではない。
そのため死亡診断書や死因証明書を作成、交付することはまずない。
しかし、今日では、科学知識はある特定分野にとどまることなく広がっており、
法病理学者が自分単独で、
人の死に関わる重犯罪の法科学的調査のすべてを専門的に行なうことは難しく、
そこには法人類学者が重要な役割を果たせる余地がある。(p.19)
第1章 無言の教え人
アバディーン大学の解剖実習室で著者が出会った物言わぬ献体から教わった
様々なこと。
遺体に敬意を払い、謙虚になるのでなければ、相手にメスを入れてはならないこと。
第2章 細胞と人間
ヒトの体内で起きる変化について→死体はいかにして分解されていくか。
身許不明の死体の〈名前〉を探すために行われる復顔、その他。
第3章 近親者
著者自身の近親者との死別のエピソード。
人間としての魅力に溢れた大叔父や祖母について。
第4章 身近な人の死
延命治療を拒否した母、晩年に元の父ではなくなってしまった父。
第5章 灰は灰に
時代の移り変わりによる葬儀・服喪の様式の変化について。
自分の最期を自分で決める自由のこと(死後献体の選択もこれに含まれる)。
第6章 骨よ、骨よ、骨よ!
食人という葬送の手法と法律の問題。
墓地不足解消法(リソメーションなど)。
1400年前の被害者《ローズマーキー・マン》。
ともあれ、本書中、私が最も刮目したのは以下のくだり💧
この手の吸血鬼そのものの話題ではないがそれを連想させるトリビアが
大好物なので(笑)。
たとえば、フランシスコ会の修道士だった調剤僧は、一六七九年に人の血を材料にして血液ジャムを作った。現存している彼のレシピによれば、調剤僧はまず死んだばかりの人の遺体から血液を調達する。この場合、生前、情感が豊かで、心に潤いがあることで知られていた人からの調達が喜ばれた。そういう人の体に流れていた血液はふくよかな気質があるとして尊ばれたのだ。こうして採取された血液は、乾燥させて、少しベタつきのある状態になるまで大気に晒され、ゼリー状に固まるのを待つ。その後、軽軟な材質のテーブルの上でスライス状の薄切りにし、残った水分を自然に流出させる。次に、火にかけながらかき混ぜてトロトロになったら乾燥させる。完全に乾燥したら、青銅製の乳鉢に入れてすり潰し、目の細かい絹布のふるいを通す。出来上がったものを瓶に入れて、密封して保存する。春先になったら、保存していた粉末を器に適量注ぎ、そこに汲みたての濁りのない水を加え、溶いて服用すれば滋養強壮によい、とされていた。(p.216-217)
第7章 遙かなる想い
長期未解決失踪・殺人事件の解決を目指す科学捜査。
殺人に時効はない。
第8章 御屍(おんかばね):遺体発見
孤独死した人の身元を確認する手立て
→遺骨から年や性別を判定(骨の長さで年齢や身長の推定がある程度可能),
骨の長さから身長を割り出す。
DNA照合その他。
イースト・ダンバートンシャー州バルモア村で
2011年10月に発見された白骨死体から故人の生前の容貌を復元=復顔したこと。
巻末に失踪者情報提供を呼びかける資料集あり。
これだけの期間、肉親からの名乗り出がないのは、
故人が死を迎える以前に縁者がことごとく亡くなっていて、
完全に孤立した状態だったということなのか……。
第9章 死体損壊
殺人者のうち、事後、被害者の遺体を切断する者がいるのは何故か
→犯罪の発覚を遅らせるため、遺体を事件現場から移動させるに当たって、
人体そのままの形では重く嵩張って運びにくいから……という、
無関係な一般人の想像を裏切る身も蓋もない即物的な理由で、
おぞましい行為が実践されているという実情【※】。
・ギャング団の中の〈解体(バラシ)屋〉という専門職。
・つまらない理由で妹を死に至らしめた兄が証拠隠滅を図ろうとした話。
【※】この話題には別役実×玖保キリコ『現代犯罪図鑑』で既に接していた。
第10章 コソボ
バルカン半島の歴史・政治的事情について。
1999年、コソボ紛争時に虐殺された一般市民の被害状況を明らかにするため、
遺体を剖検するチームが編成され、
その一員として任務に当たったという著者の記憶。
死者の尊厳の維持・遺族の悲しみに寄り添うことの大切さ。
筆舌に尽くしがたい悲惨な状況を敢えて冷徹に叙述することの意義。
第11章 惨事の衝撃
大規模自然災害や事故によって多数の死者が出た際、いかに身元確認を行うか。
1966年:アベルバン大惨事
炭坑近くの盛り土が長雨の影響で崩落し、麓の小学校を呑み込んだ事件。
1989年:マーショネス号転覆沈没事故
浚渫船に衝突されたクルーズ船が沈没した事故。
第12章 運命か、恐怖か、それとも強迫観念か
正直なところ、私は死者を怖いと思ったことはこれまで一度としてない。私にとって怖いのはむしろ生者のほうだ。私にとっては、死者のほうが生者より、すべてにおいて予測可能だ。死者は生者より協力的でもある。(p.491)
・世界初「幼児の発達骨学についての教科書」はコソボでの過酷な仕事の賜物。
・著者をネズミ恐怖症にした原体験。
・冷静に仕事をこなし、しかもPTSDにならないために必要な、
頭の中のモードの切り替え=〈区切られた完全独立型の小部屋〉の重要性。
・手の甲の静脈の走行パターンによって個人を識別できること
→この科学的事実に基づいて被告を有罪に処せたはずが……という、
陪審員団の先入観に起因する残念な裁判の結果。
被害者である十代の少女が冷静に証拠を提示し、
淡々と供述したことを褒めるのでなく、
真の被害者にそんな態度が取れるはずはないとの思い込みから
被告を無罪にしてしまったというお粗末な一件(2006年)。
被害者はいつでも取り乱し、泣き叫ぶのが普通だとでもいうのだろうか。
これは被害者が男性であるなら、
いかなる状況下でも強く沈着であらねばならないとの決めつけと
表裏一体の悪しき先入観ではなかろうか。
大人の女性となった原告が、今は心安らかに幸福に過ごしていると信じたい。
第13章 理想的な解
人屍体標本(カダバー)の最良の保存法を見出したシール教授のこと、
著者が勤務するダンディー大学に〈シール固定法〉を用いる解剖献体保管棟を
建造するために行った募金キャンペーンのこと。
葬送には土葬と火葬の他に第三の方法=死後献体がある、ということ。
エピローグ
著者の死生観。
最終的には献体→解剖実習用の遺体となってダンディー大学の浸漬漕に浸かり、
延いては骨格標本として永遠の命を授かりたいという希望のこと。
他者の死を悼み、遺族の悲しみに思いを致しながら、
著者自身が将来家族を置いて旅立つことについては極めてドライな態度が清々しい。
私も葬送のスタイル等については常日頃から思うところアリなので、
共感できる部分が多かった。
ところで Professor Dame Sue Black は本書(日本語版)刊行時の肩書は
オックスフォード大学セント・ジョンズ・カレッジ学長と
巻末に記載されているのだが、
先ほど検索したら2021年からイギリス貴族院議員となっていた。
あらまあ。