文芸批評家・福嶋亮大=著『感染症としての文学と哲学』(光文社新書)
読了。
先日読んだ19世紀吸血鬼小説アンソロジー『吸血鬼ラスヴァン』解説で
言及されていたので興味を持って。
fukagawa-natsumi.hatenablog.com
文学と哲学はいかに「病」の影響を受けてきたのか――を考察する一冊。
以下、読みながら取ったメモをつらつらと。
■ 序章 パンデミックには日付がない
・病がヒトに降りかかるのではなく、
ヒトが病の中に足を踏み入れる=病気に参加するという捉え方もある。
・パンデミックには「いつからいつまで」といった
明確な日取り・期間が存在せず、ヒトの時間の感覚を麻痺させる。
確かに、既に朦朧としておりますがな……。
■ 第一章 治癒・宗教・健康
・病から急激に回復~名状しがたい空白感(p.29)で
アップダイク「ある[ハンセン病患者]の日記から」を思い出した。
・疫病と宗教:
イエスは治癒者であり仏教は免疫システム。
宗教の発生や流行は疫病と深くかかわっていた=
病を治癒する技術や知識の伝承が宗教者の仕事に含まれていた。
・ケアは新種の道徳=日常生活における自発的医療化:
人間は自分自身を日々モニタリングするよう、社会に仕向けられている。
■ 第二章 哲学における病
・疫病と戦争を生き延びた古代ギリシャの哲人。
・魔術から医学へ。
・解剖学と哲学の交差:
ヒポクラテスの衣鉢を継いだ解剖学者ガレノスは、
それまでの医学を集大成する仕事をなし、
後の医学史に決定的な影響を及ぼした。
[2]近代Ⅰ――デカルトとその批判者
・16世紀イタリアで活躍した外科医ヴェサリウスの解剖学、
イギリスの医師ウィリアム・ハーヴィーの生理学は、
人体の構造をそれ自体として把握する道を開いた。
デカルトの哲学には彼らの研究が取り入れられている。
・哲学と生理学の融合、抽象的な思弁を弄したロマン主義医学の盛衰。
・インフルエンザの猛威(1782年)を目の当たりにしたカント。
ヨーロッパの人々が船や隊商によって世界の各地域との間に作った
結びつきがエピデミックな病を出来させたことの脅威。
・牛痘によって種痘の安全性と効果が飛躍的に高まった(1796年):
牛(vacca)→ワクチン(vaccine)。
↑そうだったのか!↑
・だが、カントは独自の理念(倫理観)から
種痘という人為的感染を「悪」と見なした。
・哲学 vs 医学 / 唯心論 vs 唯物論
・細菌学のコッホや免疫学のジェンナーがもたらした
彼は細菌学を一つのモデルとして
心の病因の特定という至難の業を成し遂げようとした。
かつて医学生としてシャルコーの弟子ジョゼフ・ババンスキーに師事した。
人体と感染症の問題から遠ざかっていった。
■ 第三章 疫病と世界文学
・文学における疫病と医学。
・トロイア戦争を題材とし、
病や負傷を繰り返し語った満身創痍の『イリアス』。
・『オイディプス王』における疫病。
[2]ペスト――額縁・記録・啓示
・掟を解体する疫病=ボッカッチョ『デカメロン』。
・事実と虚構の狭間=デフォー『ペスト』と『ロビンソン・クルーソー』。
前者はロックダウンされたロンドンに監禁された市民についての記録、
後者は外界との通信が閉ざされた監禁状態における開発の物語。
・実情を精密に叙述する代わりに恐怖と笑いを際立たせた
エドガー・アラン・ポー「ペスト王」。
・あるいは死が生をジャックする「赤死病の仮面」。
・『デカメロン』と「赤死病の仮面」の、
疫病と祝祭の隣接という類似性を指摘したミハイル・バフチン。
・「別離」を扱ったカミュ『ペスト』は独身男性たちによる
女性を排除したホモソーシャルな空間における抵抗の記録。
発売直後に買った新訳『ペスト』積んだまままだ読んでいない……。
でもって《100分de名著》再放送を観てしまいネタバレをかまされた。
[3]コレラ――西洋を脅かす疫病
・スーザン・ソンタグ曰く
コレラは個人を集団=環境に同化させ、結核は個人を社会から切り離す。
・ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』は
アジア由来であるコレラの恐怖を反映している。
善良な英国人・アメリカ人・オランダ人による病原=吸血鬼の殲滅劇。
ちなみにストーカーは「見えざる巨人」(The Invisible Giant,1881)
でもコレラ禍を取り扱った。
※母シャーロットの書簡に綴られた、
1832年にスライゴーを襲ったコレラ禍の記録がベースになっている。
・正義を掲げる科学の野蛮な暴力への反転:
吸血鬼と化した女性の死体を蘇生させないよう杭を打つ男たちの行為は、
相手を救うという口実の下の凌辱。
言われてみれば確かに……。
・ドラキュラの出生地はトランシルヴァニアだが、
彼が実在した客観的証拠は物語中になく、
移民と伝染病を恐れた19世紀英国の不安が生んだ表象だった――
とも捉え得る(丹治愛)。
・ペスト文学とコレラ文学の違い:
共同体内部の無秩序なエネルギーを覚醒させる機能を与えられた
ペスト文学に対して、コレラ文学は外来者に脅かされる共同体を描いた。
・コレラ文学のレジュメ:
トーマス・マン『ヴェニスに死す』では病んだ環境が個人を圧倒する。
文明人アッシェンバッハは東欧の美少年に幻惑され、
アジアから西漸したコレラに冒される。
『吸血鬼ドラキュラ』同様、
ヨーロッパ人の知性を揺るがす外来の脅威の描出。
もっとも、東とはいえポーランドはドイツの隣国ですが……。
・コレラ文学の奇妙な余韻:
結核に繊細さや優美さに彩られたロマンティックな意味を付与したが、
この分野の最後の傑作。
現実を置き去りにして独歩した
結核のロマンティックなイメージが有効だった時代(20世紀前半まで)の
掉尾を飾った。
[5]エイズ以降――疫病と文学の分離
・映画は感染とパニックの描写において文学を凌駕し、
疫病テーマは文学の独占物ではなくなっていった。
社会の除(の)け者であり続けるべくエイズを望んだ作家を描いた、
ドミニック・フェルナンデス『除け者の栄光』。
こんなマイナーなタイトルが出てくると思わなかったのでのけ反ったわ。
・平成以降の日本では文学のテーマが非感染症に傾斜し、
感染(infection)→梗塞(infarction)へ。
・一方、感染テーマはインターネットへ脈動の場を移し、
拡散・シェアを強く欲望している。
『吸血鬼ドラキュラ』と『ヴェニスに死す』の読みについては
目から鱗。
前者は連続殺人犯を追う探偵たち、
後者は老いらくの恋の物語だと思っていたので……。
■ 第四章 文学は医学をいかに描いたか
[1]小説は薬か? 毒か?
ラブレーは物語の薬効を語り、ルソーは毒を以て毒を制した。
→小説は「病の内なる治療薬」(ジャン・スタロバンスキー)
医師の家系に生まれたフローベールは幼い頃から霊安室の遺体を盗み見たり
父による解剖を覗き見したりしていた(p.270)――で、
恐怖王アンドレ・ド・ロルドを連想。
息子に後を継がせる気の医師が死体を見ても動じない子に育てようと
病院の死体置き場へ連れて行った結果……💧
人間を分解して組み立て直した
メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』、
H.G.ウェルズ『モロー博士の島』、
更には解剖学を下地とする想像力の開花、人体を暴力的かつ精密に腑分けした
J.G.バラードの諸作品(英国人ってば……)。
スマホを愛撫しつつ逆に時間を奪われ支配されている現代人を
バラード的想像力で解剖したら何が見えるか?
[4]病院としての社会
・演劇や小説の中で再現されてきた、
病んだ社会を治療するという医学的ポーズ→「病院としての社会」。
・シェイクスピア作品における無能な医者、物語に潜伏する疫病の様相。
・ロシア文学における知識人代表としての医者、ツルゲーネフ『父と子』、
または患者に転落する医者の姿、チェーホフ「六号室」、
あるいは先端的医療の弊害を先取りしたソルジェニーツィン『ガン病棟』。
・最早19世紀の大河ロマンによって癒されはしない人類にとって、
いかなる文学が必要なのか。
[1]感染モデルと衛生モデル
感染は集住の代償であり、差別せず偏見も持たず、
動物に寄生して越境と増殖を続けるウイルスは究極のリベラリストである。
また、疫病対策は政治の要諦であり、植民地経営も然り。
・文学に入り込んで各々特徴的なイメージを提供してきたペスト、コレラ、
単なるデータとなって社会を覆い、
梅毒‐セックス、結核‐ロマン主義、コレラ‐アジア、エイズ‐同性愛のような
目立った意味的結合を生じさせていない、つまり、
特徴がないことが特徴であり、無色透明であるが故に
容易に人間の生活環境に溶け込み、拡散してしまった。
・新型コロナウイルスは、
むしろソラリスの海のように我々を映す鏡なのかもしれない。
[3]病という戦略
・10世紀末の日本は「疫癘の年」として宮廷文学に記された。
・パンデミックが起きてからパンデミック文学を書いても役に立たない。
・言葉は現実のフリをする記号でしかない。
【まとめ】
身も蓋もない話だけど、
確かに小説なんて感染症の蔓延の前では無力・無益。
ただ、重篤な状態に陥った人やケアに当たる人を除き、
ステイホームってことでちょいと時間ができた、なんて向きには
暇潰しの具として有用なのでは(←ちょっと虚無的)。
どうして21世紀のこの現代に
人類が寄生体と鼬ごっこを繰り広げにゃならんのだ、とは思うけれども、
現状を嘆くより、
こっちはこっちで上手く立ち回る工夫をするしかないのでは、と愚考する。
個人的に悶々することは多々あるのだが、黙秘(笑)。
【おまけ】