あの、今回タイトル長いっす(笑)。
BS-NHK『ダークサイドミステリー』最新回を録画視聴。
親知らずのラスボスを口腔外科で抜歯してもらって発熱するは
顔が腫れるわで(細かい話はタイーツ済🦷)
今もまだ片頬が餌を詰め込んだリス状態で非常にオモロイ顔なんですけれども、
ようやく見ましたので備忘メモなぞ。
恐怖文学を生み落とした、人々の不安とは? ……というお話。
ドラキュラ
1897年5月に発表された本作ヒットの要因は、
当時の英国人の恐怖のツボを押さえていた点。
それは異郷への恐れであり、
異世界からの来訪者が、例えば2人に噛みつき、その2人が4人に噛みつき、
4人が8人に……という、パンデミックへの恐怖。
外部から侵入してくるものへの恐怖をベースにしていたことだった。
これは福嶋亮大『感染症としての文学と哲学』第三章「疫病と世界文学」でも
指摘されていた。
『ドラキュラ』はアジア由来であるコレラの恐怖を反映しており、
善良な英国人・アメリカ人・オランダ人による病原=吸血鬼の殲滅劇となっている。
また、吸血鬼と化した女性ルーシー・ウェステンラの死体を蘇生させないよう
杭を打つ男たちの行為は、相手を救うという口実の下の凌辱であり、
正義を掲げる科学の野蛮な暴力への反転に他ならない――と。
英文学者・丹治愛も、清廉な男を惑わせる魔物となったルーシーの処刑を
一同が救済と捉えていることには、
作者ブラム・ストーカーの保守的な女性観が表れていると述べる。
『ドラキュラ』刊行当時、隣国フランスでは自然主義の発展により、
あからさまな性描写を伴なう文学も隆盛しており、
それが英国に流入したことに対するブラム・ストーカーの嫌悪感が
表明されていたのでは、とも。
丹治曰く、ブラム・ストーカーは自身のセクシャリティに葛藤を覚えており、
自らが性的に堕落してしまうことに怯えていたのだろう――。
fukagawa-natsumi.hatenablog.com
タイムマシン
1895年に発表された、SFの父H.G.ウェルズの作品。
タイムトラヴェラーが帰還し、顚末を茶話会で出版人らに報告したものの、
誰にも信じてもらえなかったので、彼は「今度は証拠を持ち帰る」とて
カメラを持って再び旅立ったのだが……。
80万年後(!)の未来では、理想郷を築き上げた後、人々が退化していた――。
これはヴィクトリア朝で流行していた楽観的な未来論へのアンチテーゼだった。
3000万年後(!!)の未来の描写でウェルズは地球温暖化を示唆しており、
科学的に考えて
遠い将来にユートピアが実現することはあり得ないとの見解を示した。
ウェルズは永遠の進歩という観念を否定し、
未来は大いなる闇に包まれていると、作品を通して述べたのだった。
ジキル博士とハイド氏
1880年代後半に発生した、医師の手口をも疑わせる切り裂きジャック事件が、
作者スティーヴンソンの執筆の契機になったのではと考えられる由。
原作ではハイドの悪行は意外に大したことはなく(←専門家の見解です💧)
映画化の際のデフォルメにおいて
切り裂きジャック事件のイメージが混淆したと見られる、とか。
スティーヴンソンは勤勉・禁欲をモットーとしながら本音を隠して暮らす、
自らもそこに属す中産階級の人々の偽善を炙り出し、
ダーウィニズム人間観のゴシック的表現を以て批判・糾弾しようとしたのだった。
ジキル=善 vs ハイド=悪 という見方は誤りで、スティーヴンソン自身は、
自分の中の忌まわしい部分を切り離して世に放ったジキルこそが悪だと訴えていた。
人間と社会の矛盾を浮かび上がらせた三作品に共通するのは、
ヴィクトリア朝期の拡がり過ぎた領土の境界線を越えて
やってくるものへの恐怖であり、
栄光は未来永劫続きはしないだろうという不安だった――。
各作品の紹介で、イラストを背景に俳優さんが演技する映像が、
却って自然な19世紀末の雰囲気を醸していて、とてもいい演出だと思いました。
『タイムマシン』は未読なので、そのうちアタックしようかな。