深川夏眠の備忘録

自称アマチュア小説家の雑記。

ブックレビュー『夢のなかの街』

十年ほど前に一度読んだ倉橋由美子の短編集『夢のなかの街』を再読。

 

 

 

迷宮

1963年発表

[再読]

あたしボクのセリフ及びあたしが書いたとされる小説の断片が開陳される。

自動車事故を起こしたあたしと目撃者になったボクは喫茶店で話し、

その後もしばしば面会する。

遺書ヲ書イテ死ヌナンテ、マゾヒストダ。(p.11)

ボクあたしに関心を持ち、様々なことを聞き出そうとするが、

あたしは嘘か本当かわからない話を次々に繰り出して

ボクを煙(けむ)に巻くかのよう。

タイトルは、小説すなわちあたしの言う「想像力の迷宮」を指す。

小説って、想像力の迷宮よ。(p.65)

ボクあたしが女流作家Y・Kではないかと考え、

住所を調べて[*]そこへ赴いたのだが……。

[*]

 1970年代頃まで(?)は小説家や漫画家の住所が雑誌に掲載され、

 愛読者が直接ファンレターを送れるようになっていた模様。

何者でもない女が他者に自らを何者かであると印象づけようとして、

思わせぶり、かつ、虚栄に満ちた言辞を弄しただけ――とも言えそう。

 

恋人同士

1963年発表

[再々読]アンソロジー『暗黒のメルヘン』でも一度読んだ。

一組の男女と(多分)二匹の仔猫たちによる四角関係。

青年Kは婚約者より雌の黒猫ミカを愛しているようだ。

 

死刑執行人

1963年発表

[再読]

語り手わたしと同僚たちは死刑執行人である。

極悪人に究極の罰を与える瞬間を善良な一般人に公開し、娯楽を提供してもいる。

だが、徐々に「効率を重視すべきでは」との意見が持ち上がって来て

わたしたちの仕事の意義に疑問符が付き始めたらしい――という呟きが、

文庫15ページ半の一段落という息の長さで一気に語られる。

それでもわたしの私生活が上手くいっているらしい様子に読者はホッとするのだった。

 

夢のなかの街

1964年発表

[再読]

亡父の墓参のため夫と共に《KOOCHI》へやって来た語り手わたし

過去を回想したり、奇妙な事象に直面したりするのだが、

タイトルが示すとおり、

本文は著者の現実の体験と就寝中の夢と少女時代の願望(見果てぬ夢)が

ゴチャ混ぜになっている風。

 

宇宙人

1964年発表

[再々読]アンソロジー『夢÷幻視⒀=神秘』でも一度読んだ。

ある朝、部屋に出現した卵を温めてやると、生まれてきたのは無毛の宇宙人だった。

大学生のぼくと姉は、それをペットもしくは愛人として扱ったが――。

物言わぬ宇宙人は姉弟が現実を離脱する虚空の脱出口となる。

このくらやみの宇宙にはいっていくことを、ほかの人間たちが「死」とよんでいることをおもうと、笑止千万だった。ぼくはかれらとは別の世界へ移るだけだ。おそらく、かれらにはわからない入口をとおって……(p.168)

↑ ドゥワミッシュ族の格言「死は存在しない。生きる世界が変わるだけだ」を連想。

ところで、最初、幼い姉弟の話かと思って読み進めたらぼくは大学生で、

は婚約中だったので飲んでいたお茶を噴いた(笑)。

 

亜依子たち

1965年発表

[再読]

真面目で内気な18歳の真壁亜依子は奇怪な発作を起こして病院へ。

世間体を気にするばかりで愛情に乏しい母と娘に無関心な父――

現代のボキャブラリーで言えば一種の毒親――のせいでストレスが嵩み、

解離性人格障害を発してしまったのだ。

亜依子と入れ替わって麻衣子ミーコミラが現れ、

亜依子には叶わなかった自由を謳歌しようとする。

亜依子は担当医の中で一番若くてハンサムな三木医師を好きになったが、

先生は既婚者で恋は成就しなかった。

それでも気持ちの整理がついたらしい亜依子は退院したのだが……。

恐らく執筆・発表当時より現代の読者の方が「さもありなん」と頷きそうな、

現実に起こり得ると思える物語。

最後の意趣返しが痛快。

 

隊商宿

1965年発表

[再読]

砂漠のオアシスで妻や使用人と共に宿を営む99歳のK。

ある日、が客としてやって来て傍若無人に振る舞い始め……。

Kにとっては一切合切、余計なお世話でしたねぇ。

 

醜魔たち

1965年発表

[再読]

岬の別荘で夏を過ごすぼくのもとへ従妹がコリー犬を連れてやって来た。

Mはぼくのお目付け役のはずだったが、ぼくたちは愛人関係になってしまう。

そんなある日、ぼくたちは海辺で、少年院を脱走したらしい混血のと出会った――。

人間に対して悪をばらまく鬼の総称の一種である悪鬼の呼称の一つに

悪鬼醜魔があるが、タイトルは単に醜い魔性のものども、の意であろう。

 

解体

1965年発表

[再読]

わたしの住居は孤立しているが何故か不可解な用件で電話がかかって来るし、

精神科医には「一種の世界没落体験」であろうと言われ、

おまじないとして「COGITO,ERGO SUM!」と唱えるがよいと助言されるが……。

作者自身の往時の世の中に対する不信感や、

自身の心身の不調への不安などを盛り込んだと思われる、取り留めのない話。

 

ある遊戯

1969年発表

[再読]

人物的には作者自身をモデルとするらしい女子大生Mの悪ふざけ。

内容はフィクションであろう。

担当教官である助教授Pを誘惑するMだったが、

彼に好意を抱いているわけでも単に暇潰しをしたいわけでもなさそう。

校内の文学コンクールに入賞したことに誇らしさと不安を感じて、

自分でも何をしたらいいのかわからない状態、といったところか。

 

マゾヒストM氏の肖像

1970年発表

[再読]

作家であるわたしの従妹で大学生のJ子変な男の家庭教師を始めたという。

行きつけの喫茶店の常連であるM氏に頼まれて、

彼の弟に勉強を教えることになったというのだが、

後日わたしM氏の弟に遭遇し、

その異様な風体・挙措に眉を顰める羽目になった――。

事が一段落した後に、

マゾヒストによるマゾヒストのための奇怪な長編小説が匿名で発表され、

わたしは作者がM氏に違いないと睨むのだった。

倉橋さんが『家畜人ヤプー』を読み、

作者が何者か想像を巡らせてこれを書いたのでは?

ともあれ、谷崎潤一郎江戸川乱歩とでも言ったらいいか、

奇妙な人物にしばし日常を掻き回される女流作家の、

それでも冷徹な慧眼が小気味よい。

 

腐敗

1971年発表

[再読]

語り手は夫およびその友人夫妻と彼らの子供と共に車で旅をしているが、

叙景は彼女の主観によって歪められ、奇怪な眺めになっている。

彼女は海で泳ぎ、溺れ、死体となりつつある自分を見つめる彼らの声を聞いている。

↑ ネタばらしの一行を白文字にしています ↑

 

中井英夫による解説が『ハネギウス一世の生活と意見』に収録されていたので、

そこからこの『夢のなかの街』に辿り着いたのだった。

解説は、読んでみると存外優しい調子で、

中井さんは倉橋さんに作家として好感を抱いていたのだろうな、と思える。

リスペクトが感じられます。

余談になりますが、

お二人は新聞紙上で往復書簡風なエッセイを連載されていたそうで、

中井さん執筆分が『ケンタウロスの嘆き』に収録されているのですが、

これがまるで一方通行のラヴレターの趣で、キュンと来ましたよ。

倉橋さんのパートは『磁石のない旅』所収とか。

 

ja.wikipedia.org

 

まったく熱心な読者ではなく、読んだり読まなかったりですが、

なんだかんだ言いながら日本の女性の作家では倉橋さんが一番好きです。