20世紀前半にウィーンで活躍したユダヤ系作家
レオ・ペルッツ(1882-1957)の(わりと短い)長編小説
『テュルリュパン~ある運命の話』読了。
舞台は17世紀のフランス、目障りな貴族を一掃しようと目論んだ
アルマン・ジャン・デュ・プレシーの企てを阻止せんとした(?)
謎の人物を巡る物語。
空想癖のある理髪師の青年タンクレッド・テュルリュパンは
実の親を知らないが故に、
本来歩むはずだった道をあれこれ思い描きながら暮らしていた。【*】
そんな自分の行いを神様が見ているから……と、
顔見知りの葬儀に参列しようとした彼は、
てっきり宿なしの物乞いとばかり思っていた死者が
イル・ド・フランス世襲知事の
ラヴァン公ジャン・ジェデオンと聞いて驚くも、
喪に服す公爵未亡人の態度から、彼女こそ我が母に違いないと考えて――
頓珍漢な冒険の幕が上がるのだった。
【*】
自分が何者かわからないからこそ、何者にでもなることが出来る――
といった調子で、貴族の落胤だったらどうだろうか、あるいは……等々、
様々な想像を膨らませるタンクレッドを、私は愚かだとは思わない。
私なんぞ、どこの誰だか、
どうしようもないほどハッキリしているにもかかわらず、
ああでもない、こうでもない、もしそんなだったら今頃は……云々、
あったかもしれない別の人生に
ずっと想いを巡らして育ってきましたからね(笑)。
それらを他者に虚言として開陳しなければ何ら問題はないワケで。
ついでだからもう少し放言すると、
現実生活における座り心地の悪さ、
居たたまれなさを切に感じたことのない人に
果たして小説が書けるものだろうかと考える次第。
タイトル=主人公のファミリーネームを
最初に見たとき「アルルカン(arlequin)」と通じ合う響きだな、
と思ったのだが、
訳者あとがきに「turlupin《古》大道道化役者[後略]」とあって、
満更ハズレでもなかったとほくそ笑んだ。
タンクレッドは
歴史の流れを制御しようとした――但し気紛れに、単なる暇潰しとして――
神が放ったジョーカーの札だったのかもしれない。
一読者としては、例えば投獄→解放→理髪店主(未亡人)の娘ニコルと再会、
結婚して店を切り盛り、もしくは、
ラヴァン公爵邸の小間使いジャヌトンと駆け落ちして、つまり、
いずれかの女性とペアになって幸せになってほしかったけれど……残念。
面白かったが、事前の期待値が高過ぎたかな。
『どこに転がっていくの、林檎ちゃん』ほどの衝撃は受けなかった。
いや、もちろん面白かったのですけども。
ところで、原著発表時(1924年)に書評家アルフレート・ポルガーが書いた
『テュルリュパン』評が収録されていて、大変興味深い。
p.224~225より引用。
> 彼の本は読者に存在の新しい姿を伝えたりはしない。
> 時代に風穴も開けないし、死や金欠病や不幸な(あるいは幸福な)
> 愛を克服する助けにもならない。
> 彼の本はあなたに永遠を約束したりはしないが、
> あなたがそれを読む時間を誠実に満たす。
> 豊かな酸素によってあなたに活力を与え、
> 気候のよいところに転地療養をしたように流行本の邪気を払う。
> そうした流行本は不定形で不安定なぶよぶよしたもので――
> 塀の茸のように生えたと思ったらたちまち消え――
> 造形力を欠くため混沌としていて、
> おのれの浅はかさを隠すために嵩を膨らませる。
我が意を得たり(笑)。
そして、それこそが幻想小説の醍醐味ではないかしらん、
と思うのだった。