萩尾望都『一度きりの大泉の話』読了。
日本少女漫画界の大巨星・萩尾望都御大の自叙伝が出ると聞いて、
喜び勇んで予約したものの、発売を待つ間に何やら不穏な気配を感じた。
読み始めてじきに、嫌な予感が的中したのを察した。
新人時代の慌ただしくも楽しかった青春の日々――
といった話ではなく(もちろん愉快なエピソードも回顧されてはいるが)、
反芻すればするほど苦くて辛い出来事の記録なのだった。
これから読む人のために、細かい点には触れないが、
オモー様の価値観、物事の捉え方・考え方、
また、それらに基づく反応の仕方に強く共感した。
例えば p.265、
> 私は何か言われて、不快でも反論せずに黙ってしまう癖があります。
> それは不快という感情と共に、強い怒りが伴うので、
> 自分で自分の感情のコントロールができなくなってしまうのです。
> 感情は熱を持ち、一気に暴走列車のようになり、
> 自分で持て余してしまいます。
> この感情はきっと大事故を起こす。
> 怖くなって、押さえ込み、黙ってしまう方を取ります。
> 冷静に反論する練習をすればいいのでしょうが、
> なかなかうまくいきません。
わかる。
芸術家にも能弁でセルフブランディングが得意な人物と、
不得手な人物がいると思うのだが、
私は後者に好感を抱くし、応援したいと考える。
また、本書を通読して、
何故自分が(自慢できるほどちゃんとした読者ではないけれども)
萩尾作品が好きなのか、理由の一部を再確認した。
勝者の物語にほとんど興味がなく、
悩める人々が自らの苦悩とある程度折り合いをつけながらも、
やはり悩み続けて生きていくストーリーに共鳴するからなのだ――と。
特に好きなのは第二期作品集という括りに入る短編群。
「半神」「ラーギニー」「スロー・ダウン」など、
たったこれだけのページ数でどうしてこんなに深い話を!
と、読むたびに驚いてしまう。
「エッグ・スタンド」は読むと必ず泣いてしまう反戦漫画。
「天使の擬態」「十年目の毬絵」も、
生きることの喜びと悲しみの対比が美しい。
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