1960年代~1980年代初頭にかけて発表された、
中米からヨーロッパを股に掛ける、小さいながら奥深い物語、全10編。
概ね平凡で清貧な人々の間に不意に広がる波紋が描かれていると言えそうだが、
1970年代以降の作品になると
軽いユーモアに留まらないドス黒さや苦味のようなものも感じられる。
■ 大佐に手紙は来ない(El Coronel No Tiene Quien le Escriba,1961)
1956年、コロンビア。
数多の死傷者と避難民を生み出した暴動、
ラ・ビオレンシア(la Violencia:1946年以降、十数年間に渡る内戦状態)の
最中、退役軍人の〈大佐〉は毎週金曜になると
恩給の支払いを告げる手紙が届くことを念じて郵便局へ。
持病のある妻との生活を支えるよすがは
亡き息子アグスティンが遺した軍鶏だけだった……。
年を取り、疲れ果てた夫婦の、生活費を巡る諍いが、
それでも一抹のユーモアを含んで展開される、ペーソスに満ちた切ない佳品。
訳者解説によれば夫妻のモデルは
給料の小切手を待っていたガルシア=マルケス自身と、
執筆時の恋人タチァ・キンターナとのこと。
大佐はトランペットが足りないのに気がつき、
そのとき初めて死者が間違いなく死んでいることを悟ったのだった。(p.14)
――という、葬送の楽隊の音楽を聴いて、
今、行われている葬儀が他でもないトランぺット奏者の一人のものだと
思い至る描写がさりげなく見事。
■ 火曜日のシエスタ(La siesta del martes,1962)
舞台は恐らくマコンド(Macondo)。
喪に服す母と娘が汽車で出掛け、教会を訪れる。
神父への用件は墓地の鍵を借りることで……。
午睡の時間帯でdullな空気に満たされた街を静かに掻き回す女の、
毅然とした態度が痛ましくも美しい。
■ ついにその日が(Un día de éstos,1962)
無資格の歯科医ドン・アウレリオ・エスコバルが
朝早く診察室を開けて準備していると、八時過ぎ、
息子が「町長が歯を抜いてもらえるか訊いている」と、声をかけてきた。
父は放っておけと言ったが、物騒な言葉が飛び出したので、
やむなく入室を許可。
「歯を抜いてくれないと、一発ぶち込むって」
「ぶち込みにくるようにと伝えろ」
下の親知らずが痛むので抜いてほしいという町長だったが……。
〈暴力の時代〉=ラ・ビオレンシアにおける復讐の一コマと思われる掌編。
ナイフもピストルも使わない、鬼気迫る決闘の情景。
患者の歯科医に対する恐怖心を戯画化した、
クリストファー・ファウラー「麻酔(On Edge,1992)」を思い出した。
■ この町に泥棒はいない(En este pueblo no hay ladrones,1962)
コソ泥のダマソは深夜ビリヤード場に侵入し、金目の物を盗もうとしたが、
奪えたのは三つの球だけだった。
年上の妻アナはあまりの馬鹿馬鹿しさに呆れかえったが、
ダマソはともかくも盗むことに成功したので
自分自身に箔が付いたと感じた、が……。
■ バルタサルの奇跡の午後(La prodigiosa tarde de Baltazar,1962)
純朴な大工の青年が見事な鳥籠を作り、町の評判に。
果たしてそれはいくらで売れるかと周囲は騒ぎ立てたが……。
■ 巨大な翼をもつひどく年老いた男
(Un señor muy viejo con unas alas enormes,1968)
既読(鼓直=訳「大きな翼のある、ひどく年老いた男」)。
ある日、みすぼらしい老人の顔をした天使が落ちてきて、
一家の庭に見物客が押し寄せ始めた――。
■ この世で一番美しい水死者
(El ahogado más hermoso del mundo,1968)
既読(木村榮一=訳「この世でいちばん美しい水死人」)。
漂着した大男の死体に崇敬の念を抱き、丁重に弔う女たち。
上記二編は
客人(マレビト)が貧しい人々に幾許かの幸(さち)をもたらして去る、
寓話として読める。
……が、どうしても
J.G.バラード「溺れた巨人(The Drowned Giant,1964)」のイメージが
脳裏にチラついてしまうのだった。
■ 純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語
(La increíble y triste historia de la cándida Eréndira
y de su abuela desalmada,1972)
(鼓直=訳「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」)
14歳の孫娘の不注意で火事になり、屋敷を失った祖母は淡々と弁償を求め、
彼女に売春させる。
現状を憂えながらも反抗できない、
生まれながらにスポイルされた少女エレンディラの過酷な運命。
彼女に恋した青年は祖母殺害を試みるが……。
残酷かつ不条理の極みだが、湿っぽさはまったくない。
終盤はシュールなコントのようで笑ってしまった。
しかし、虐げられ、汚穢にまみれながらも心はタフなエレンディラは
自由になって、きっといつか幸福を手にするだろう、そんな気がする。
■ 聖女(La santa,1981)
死後も腐敗せず、しかも重量を持たなくなった娘の遺骸をトランクに収め、
列聖してもらうためにローマを訪れた男、マルガリート・ドゥアルテと
語り手である小説家〈わたし〉の交流。
教皇庁の官僚主義によって請願が簡単に受け入れられないこと、また、
教皇との面談が叶うかと思えば不慮の死を遂げられてしまうという
不条理劇めいたエピソードが悲哀を際立たせる。
■ 光は水に似る(La luz es como el agua,1978)
クリスマスにオール付きのボートを欲しがる兄弟、
9歳のトトと7歳のジョエル。
マドリードのアパートメント暮らしでは、
買ったとしても使えないと却下する両親だったが、
いい成績が取れたら……と条件付きでOKしてしまった。
息子たちは本当に目標をクリアし、
見事ボートを買ってもらうことに成功したのだが――。
ユーモアと幻想のマリアージュ……と、ワクワクして読み進めたが、
なかなか残酷な結末だった……。
うーん、でも、まだ『百年の孤独』に手を出すのは早いかな……。