深川夏眠の備忘録

自称アマチュア小説家の雑記。

ブックレビュー『コンラッド短篇集』

映画『地獄の黙示録』の原案『闇の奥』

あまりにも有名なコンラッド(1857-1924)の短編集。

20世紀初頭に発表された6編は、

いずれも人の心の襞に潜むものを洗い出すかのようなストーリーであり、

また、後年の長編への布石とも受け取れる設定も存在する。

 

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闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

 

 

エイミー・フォスター(Amy Foster,1901)

 英国の僻村、イーストベイ海岸のコールブルックに住み着いて

 開業医となったケネディ医師が「私」に語った悲しい逸話。

 医師が診察した子供の母エイミー・フォスターと彼女の亡夫について。

 不美人で垢抜けない、愚鈍な印象すら与える女性エイミーは

 いかにして結婚に至ったか――という話だと思わせて(そのとおりではあるが)

 実は夫となったヤンコー・グーラルが主人公。

 彼が漂着したよそ者であるが故に冷遇され続け、

 心を通わせたはずの妻とも真に理解し合えなかったことが明かされる。

 そんなヤンコーの悲劇の物語なのだが、

 妻エイミーの名がタイトルになっている点が興味深い。

 エイミーは優しかったが、結局は言葉が通じず、

 コミュニケーションに不安を覚え、また、

 そんな彼が生まれた子供に自分の母語を染み込ませようとしたため、

 嫌悪感を覚えて、異物である彼と《村》の間の緩衝材であることを

 やめてしまった。

 定住しながら同化を拒んで異質性を保ち続けた異邦人を

 最後まで受け入れなかったコミュニティの代表として、

 エイミーが題名になっているのだろうか。

 彼女は臆病なだけで悪意はなかったのだが。

 外来者は環境に適応しようと努力しても、

 そこが極度に閉鎖的で後進的な地域だった場合、心労が絶えないし、

 本来の独自性(言語,文化,宗教,etc.)を保とうとしたならば

 決して《仲間》には加えてもらえないというのは、

 現代の移民問題にも通じている気がした。

 もちろん、共同体サイドのあり方が問われているのだが。

 ちなみに1997年に"Swept from the Sea"のタイトルで映画化され、

 二年後に日本でも『輝きの海』として公開されていた。

輝きの海 [DVD]

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ガスパール・ルイス(Gaspar Ruiz,1906)

 19世紀初頭、スペインからの独立を目指す革命戦争下のチリにおいて、

 解放者ホセ・デ=サン・マルティンが組織・指揮した共和派軍で

 華々しい軍歴を築き上げたサンティエラ将軍の若かりし中尉時代の記憶、

 すなわち、王党派軍の捕虜となり、否応なく寝返らざるを得なかった

 屈強な兵士ガスパール・ルイスの物語。

 奇蹟的に銃殺を免れて逃亡した彼の戦いと愛。

 没落した金満家スペイン人の娘エルミニアは、

 大地震の混乱から自分を救った彼を信頼し、進撃の支えとなった。

 エルミニアは男装して夫ガスパールに寄り添い、

 彼に味方するインディオたちの尊崇を集め、やがて娘を産んだ――。

  *

 血沸き肉躍る冒険活劇にして

 ところどころご都合主義的な展開になる点は、

 さながらラテンアメリカ文学か、はたまたレオ・ペルッツの歴史小説か――

 といった印象。

 オチも予想どおり、いかにもな締め方だが、そのベタさに心を奪われた(笑)。

 

無政府主義者(An Anarchist,1906)

 食肉エキスを製造するBOS社の私有地で過ごした蝶の採集家である「私」が語る、

 牧場所属の汽艇の機械工ポールの物語。

 彼は25歳の誕生日を当時の勤務先の同僚に祝ってもらったが、

 酔った勢いで無政府主義者の仲間入りをしてしまった――。

 場の雰囲気に抗えず、

 誰かと関わる度に悲惨な方向へ転がっていった青年の悲劇と、

 彼の話を珍しい動物の生態調査のような態度で聞き取った「私」。

 

密告者(The Informer,1906)

 「無政府主義者」と並んで長編『密偵(The Seceret Agent,1907)』の

 前駆的作品とされる短編。

 風変わりな人物と交友を結び、

 それをコレクションと称す親友からアナキストX氏を紹介された「私」の許へ、

 当人がやって来て語った逸話。

 ハーマイオニ街[訳注:架空の地名]のアジトで

 地下活動を行っていた無政府主義者たちは、

 そこでの計画がことごとく失敗したことから、

 警察に内通する者がいると睨んで、そのスパイを炙り出す作戦を練った――。

 『密偵』(→新訳『シークレット・エージェント』)に登場する

 天才的な爆弾製造魔“教授(プロフェッサー)”の前身と呼べそうな

 キャラクターが登場するのも興味深い。

密偵 (岩波文庫)

密偵 (岩波文庫)

 

 

伯爵(Il Conde,1908)

 原題はイタリア語で伯爵を表すなら Il Conte のはずだが、

 コンラッド本人のケアレスミスがそのままになっている。

 語り手がナポリで出会った上品で人のいい老伯爵が見舞われた災難について。

 背後にある重要な事柄をわざとうやむやにしたかのような、

 奥歯に物が挟まった風な叙述にモヤモヤしていたが、少し検索してみたところ、

 トーマス・マン「ヴェニスに死す」

 ドミニク・フェルナンデス「シニョール・ジョヴァンニ」を連想せよ、という

 私と同じ感懐を持った人のレビューを発見してホッとした。

 訳者の解説もアッサリしたもので、その点には触れられていないが、

 実はクィアな物語だろうと考えられる。

 アンソロジー『クィア短編小説集』に収録されても

 おかしくないと思うのだが……。

 持病を悪化させないために温暖な地域を選んで

 健やかに過ごしてきたにもかかわらず、

 恐怖に駆られてその地を離れねばならなかった

 伯爵の身に起きたこととは一体何だったのか。

 伯爵の回想を額面どおり受け取っても構わないが、

 彼がその晩の出来事をありのまま「私」に語ったとは限らず、

 選ばれた言葉はセクシャルな事柄の暗喩だったと捉え得る。

 夜の公園のベンチに座り込んだ青年に気分が悪いのかと声をかけたら、

 相手は刃物を持った強盗だったというのが伯爵の言い分なのだが、

 突き付けられたナイフが暗示するものに思いを巡らした途端、

 極めて性的な情景が浮かび上がってきたし、

 そこで金銭の受け渡しが行われたことにもなっている。

 そして、伯爵は死よりも醜聞を怖れていると言われれば、

 なるほどと得心するしかないのだった。

 スキャンダルとは無論、one night love affair の暴露だろう。

  *

 参考までに引用(p.319~321)。

  私:「どんなナイフだったんですか」
  伯爵:「刃渡りの長いものでした。[略]細く長いものでした。

      [略]私のほうが襲ったと言う可能性はあったわけです」

 

武人の魂(The Warrior's Soul,1917)

 ナポレオンの遠征を迎撃したロシア軍の一員トマソフに襲い掛かった苦しみを、

 傍で見ていた士官が回想。

 マルグリット・ユルスナール『とどめの一撃』を連想した――というか、

 まさに coup de grâce の話である。

 

ところで、ちくま文庫にも同タイトルの本があったのだけれど、

こちらは絶版。

「密告者」以外、収録作が異なるので非常に気になるのだが……。

コンラッド短篇集 (ちくま文庫)

コンラッド短篇集 (ちくま文庫)