三島由紀夫「小説とは何か」(1968~1970年:新潮社『波』連載)を
二回読んで(一度目は特に何とも思わなかったが)
『無明長夜』を中古で購入、読了。
【一度目】
【二度目】
■寓話(1966年)
著者デビュー作。
偏屈な書家・桑木石道はカルト的な人気を誇りつつ、
信奉者たちが訪ねてきても一言も口を利かないなど、奇行で知られていた。
年の離れた若い妻・裕子と、
結婚前からの住み込みの家政婦・浜と共に静かに暮らしていたが、
あるとき胡散臭い若者・多田が居着き……。
何の寓意なのか見当もつかないが、
息の長い文体で奇妙な成り行きが淡々と綴られていて、
半笑いでスルスルッと読み進めてしまった。
最初は気難しい芸術家が周囲を振り回していたのだが、
彼もまた運命に翻弄される一個の無力な人間だったということか。
■豊原(1967年)
タイトルは日本の領有下における南樺太の市で、1949年に廃止され、
現在の名称はユジノサハリンスク。
Wikipediaによれば、作者自身が終戦時に居住していたという。
語り手「僕」は父の仕事の都合で家族三人、豊原へ移住したが、
それ以前から母には奇矯なところがあり、
「僕」は子供ながらに母とどう接し、理解し合えばいいのかわからずにいた。
母は身体的な暴力には及ばなかったが「僕」を無視したり、
度々意味不明な呟きを漏らしたりして「僕」をとまどわせ続けた。
父がソ連軍に連行されて帰らなくなると、
母は意外な社交性を発揮して仕事を見つけ、
友人らしき人も出来た様子だったが、
遅く帰宅した「僕」を父(夫)と誤認するなど、やはりおかしな点が多かった。
読者の目線からすると、母には性格上の極端な偏りがあるというか、
ひょっとしたら、ある種の精神的な軽度の病症を
発していたのではなかろうかという印象を受ける。
《毒親》という言葉が人口に膾炙した現在の方が、
読者の理解が得やすかろうと思われる、うら寂しい物語だが、
相互に愛情が感じられず、手枷足枷になる一方なら、
子が親を捨ててもいいではないかと、私も考える。
■静かな夏(1967年)
写真店に勤める祐吉とアパートで同棲する「私」はスーパーで働いているが、
要領よくサボる工夫に余念がない……といった、暢気な日常の叙景と思いきや、
ところどころに不審な違和感を覚えつつ読み進めると、
実はとても恐ろしい話だった、という掌編。
途中で一度も首を傾げなかった人は結構危ないヤツだと思う(笑)。
■終りのない夜(1968年)
気がつくと「私」はどことも知れない夜の町を歩いていて、
疲れたので休息したいのだが、
行き会うのは奇妙な家と人ばかりで思うに任せない。
そのうち、奇怪な老婆と言葉を交わし……。
読み始めてすぐ、山岸涼子「化野(あだしの)の…」を連想。
また、倉橋由美子の初期の作品に近い、
読んでいて生理的嫌悪感を催すテイストでもある。
まとわりつく老婆は「私」の未来の姿らしいが、
「私」がいなければおまえも存在しないのだと喝破して
相手を振り切った「私」は冒頭の情景に回帰するという円環構造。
【「化野の…」収録本】
■生きものたち(1970年)
動物や昆虫をモチーフにした掌編集としての一編。
「鷹」 動物や無機物のお面を作って遊ぶ少年が鷹になり……。
「犬」 離婚して会社に勤めながら一人暮らしをする男に付きまとう犬。
「烏」 子供のいない三十代後半の夫婦が様々な事情で転居を繰り返し、
ようやく終の棲家となる建売住宅を購入したが、
妻は様々なものを次々に恐れ、精神的に追い込まれ……。
「ライオン」 少年が遊び場にしている自宅の廃工場に住み着いた男。
「猫」 夫に先立たれ、年老いて目が不自由になった
おくめ婆さんは生活保護を受けているが、
禁止された猫をこっそり飼っている。
「蓑虫」 夫・耕の不倫相手・まだ年端も行かぬ小娘の山本品子から、
それを打ち明けられた佳子は夫に向かって
人間ではない何か別の生き物になりたいと呟く。
■わたしの恋の物語(1970年)
三日周期で不眠と嗜眠を繰り返す「わたし」。
「旦那」と呼ばれる人物、飼っているはず(?)の猫、
そして「わたし」とセックスしたがっている恋人の美青年S、及び、
干したままの蒲団(を心配すること)を巡る物語。
セリフに相当する箇所がカタカナ表記なので、
倉橋由美子の初期作品を連想したが、別に面白くはない。
当時そんな書き方が流行っていたのか。
邪推だが、現代より遙かにコテコテの男社会だった文学界で、
純文学(って最早何?)を指向する女性の作家は、
こういう斜に構えたスタイルを取らざるを得なかったのだろうか。
■無明長夜(1970年)
芥川賞受賞作。
語り手である30歳くらいの女性「私」は、
御本山と呼ばれる田舎の大きな寺・千台寺を擁する山に焦がれていたが、
宗教上の信仰とは違う性質の、名付け得ぬ畏敬の念に打たれてのことだった。
25歳のときに見合いによって千田吉彦と結婚したが、
相手に独身でいては都合が悪い仕事上の事情があったためで、
互いに愛情や尊敬の念を抱きもせず、姑との間に軋轢が生じるでもなく、
子宝にも恵まれずに淡々と暮らしていたところ、
吉彦が出張に出たきり失踪し、
扱いに窮した会社はしばしの猶予の後、退職扱いにすると連絡してきた。
姑と二人きりで暮らすのは辛かろうと慮ってか、
実母が小さな家を借りてくれたので、そこに身を落ち着けた「私」は
少女時代の御本山への憧れを再燃させるようになった――。
万事に感性が鈍く(?)周りの思惑に流されて生きていくだけであっても
「きっと世の中はそういうものだから」と考えて、
逆らうでも自分の意志を押し通すでもない、そもそも、
これだけは譲れないといった特定の事物へのこだわりがない「私」の中で、
唯一静かに燃え続けていたのが御本山への憧憬であり、
それは実は八歳のときに偶然、濡れ縁を歩く僧侶を見かけ、
名も知らぬその人を「かれ」と呼んで静かに慕ってきたためだったのだが、
夫に行方を晦まされた今、いよいよ「かれ」と実地に対面してみると……
といったストーリー。
序盤の思い詰めた風な語り口に引き込まれたが、
感情移入しにくいキャラクターであり、
終盤の展開は作者が着地点を考えあぐねて力技に持ち込んだ感が否めない。
この点については解説者・白川正芳も、
また三島由紀夫も「小説とは何か」(1968~1970年:新潮社『波』連載)で
指摘している。
以上、ガッツリしたネタバレを避けつつ、つらつら述べてみた。
「寓話」と「豊原」は素晴らしく面白かったが、
読者としてはページを捲るごとにトーンダウンしてしまったのだった。