昨日の続き。
Ⅲ 澁澤龍彦とともに(対談・書評・書簡篇)まで読了。
印象的な箇所を挙げると……
劇団NLT公演『サド侯爵夫人』プログラムに寄せた解題
「『サド侯爵夫人』について」(1965年)で、この戯曲が
インスパイアされた旨を明かしている。
『サド侯爵の生涯』は未読だが、
侯爵と夫人の関係性について、なるほど……と頷いてしまった。
『サド侯爵夫人』のオチは、とても好き。
澁澤龍彦宛書簡集(底本=2004年,新潮社『決定版 三島由紀夫全集 第38巻』)
より、二件引用。
文面はもちろん、三島が澁澤に宛てたもの。
《昭和35年5月16日(葉書)》
今度の事件の結果、もし貴下が前科者におなりになれば、
小生は前科者の友人を持つわけで、これ以上の光栄はありません。
事件とは例のサド裁判のこと。
ちなみに、
2008年の澁澤龍彦生誕80年回顧展(神奈川近代文学館)『ここちよいサロン』
にて、このハガキの現物を実見しました(ウホホ)。
《昭和43年1月20日(封書)》
ルネ・マグリット、レオノール・フィニ、モンス・デシデリオなどの、
何度でもくりかえし見たい絵を座右に置くことができるだけでも、
大きな幸福です。
貴兄は御自分の秘密の財産を公共のものにされたのです。
それにしても、右三者の画家に見られる西洋的写実の極致、
西欧という「物」の実在感こそ、
日本のいわゆる前衛画家に全く欠如しているもので、これがないから、
多くの日本の幻想派には、すぐ飽きてしまうのだと思います。
文学にも似たような感じがあります。
「物」の実在感=澁澤が述べていた「幾何学的精神」【※】ではないだろうか。
【※】出典:澁澤龍彦『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』(学研M文庫)
1.明確な線や輪郭で、細部をくっきりと描かなければ幻想にはならない
2.あいまいな、もやもやした雰囲気の中を、
ただ男や女がうろうろと歩きまわるだけの話をいくら書いたって、
そんなものは幻想でも何でもありやしない。
ちなみに、これらは幻想文学新人賞選評の一部。
私はこうした箴言を、
幻想世界を構築するには明瞭な叙景や心理描写が肝要である――の意と捉えている。
ところで、話を肝心の三島に戻すと、Ⅳ 怪奇幻想文学入門(評論篇)冒頭の
「本のことなど」(底本=2003年,新潮社『決定版 三島由紀夫全集 第26巻』)
という学生に向けた読書の勧めにおいて、
三島は昭和に入ってからの日本の近代詩を褒め、
よい詩集の一つとして、
昭和40(1965)年刊行の詩画集『大手拓次 蛇の花嫁』(童星閣)を挙げている。
おお(喜)。